部屋と沈黙

本と生活の記録

猪熊弦一郎展「いのくまさん」感想

猪熊弦一郎展「いのくまさん」を観に、周南市美術博物館へ行ってきた。今日が会期の最終日。展覧会のチラシに付いていた割引券を三角形に切り取る。おやつは明治のプチアソート。遠足気分を盛り上げようと、前日にスーパーで買っておいたものだ。

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受付で「一部の作品を除いて写真撮影OK(動画は不可)」と案内されたものの、会場内で撮影している人が一人も見当たらず、急に不安になる。念のため、近くの監視員さんにも確認してから、写真を撮らせてもらった。

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手前が『妻と赤い服』、奥が『S君の像』。

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S君、めちゃくちゃお洒落だな〜。

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『サクランボ』。良いなぁ、きれいな色。組み合わせ。本のある風景。

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藤田嗣治もいた。画家自身もフォトジェニックな人だ。

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顔モチーフのなかでは、この人がかっこ良い。この顔、どこかで見たことがあるような気がするんだけど……。

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上から『花嫁のスケジュール』、『四つの生きた丸』、『The City Planning Yellow No.1』。抽象だとこのあたりが好き。『花嫁のスケジュール』は、カレンダーのマス目の1日1日に、あれこれ詰め込んでいく感じが可愛いし、いろんな色、かたちがあって、気持ちが揺れ動いているさまもまた可愛い。『四つの生きた丸』は、まさに四つの生きた丸だったんだけど、写真にすると“その感じ”が消えてしまう。

あとは、猫とか鳥とか。
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この額縁の猫、実物はもっと良いんだけどなぁ。写真にすると、やっぱり“何か”が消えてしまう。

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対話彫刻もおもしろい。なんて言えばいいんだろう……あ、そこに居たんだ、っていう感じ。何かを模したわけじゃなく、そこにあって、そこになかったものを取り出してきたような。私にとっての短歌の印象と少し似てる。

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展覧会と同じくらい楽しみにしているミュージアム・ショップで買ったもの。犬派なのに、奇しくも猫だらけ。猫ステッカーにポストカード、缶バッジと手ぬぐいハンカチ。

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缶バッジの図案は、お風呂の前と後だろうか……。犬もあんな感じになるよ。ナップサックに付けようかな。

いつか丸亀市のMIMOCAにも行ってみたい。

パズーの献身

ブログ用に書き進めていた文章に引用しようと、スタジオジブリの公式サイトで『天空の城ラピュタ』の画像を見ていたところ、不意に「結婚するならパズーだろ……!」と確信する。

以前、ネットの記事で「恋人にしたいジブリ男子」なるランキングを見かけたことがあり、そこではハウルやハク、アシタカあたりが人気だった。この手の空想は私も大好きなので、ランキングを眺めながら「私なら誰かなぁ……」などと考えてはみたものの、いずれの男子も素敵ではあるが、取り立てて「この人!」という男子はおらず、そのうち忘れてしまった。

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そもそもパズーは子どもだ。最初から恋愛対象として見ていないから、そこまで深く考えていなかった。でもこのシーン……滅びの呪文を一緒に言ってくれる人なんて、いる!?「滅びの呪文」だよ!?口にすれば、自分自身も傷ついてしまうかもしれないのに。

こんなにも利他的なジブリ男子って、他にいただろうか?献身、と言ってもいい。多くのジブリ男子は、たとえば自らにかけられた呪いを解くため、というような“自分自身の目的”がある。ハウルもハクもアシタカも、全員、呪われている。彼らはやや諦め気味ではあるが、自らの呪いを解きたいと思っている。

誰かのために奮闘してきたのは、多くの場合、ジブリ女子だった。たとえば民のため、豚に変えられた父と母のため、身勝手な支配を阻止するため。『ハウルの動く城』のソフィーなんて、自らも呪いを受けながら、そんなことわりとどうでもいいように振る舞う。彼女たちの目的は、自分の外側にある。

もちろんただの、ちょっとした思いつきだ。すべてを観てはいないし、きちんとリサーチし直したわけでもないけれど、比較的、そういう傾向があるように思う。

そう考えると、パズーは稀有な存在だ。いきなり空から落っこちてきた女の子シータを守り、シータに守られている。ついでに呪われてもいない。「シータを助けたい」という気持ちだけで動いている。あるいは「父の汚名を晴らしたい」。

もしかすると『天空の城ラピュタ』こそ、ダブルヒロインかつダブルヒーローものであると言えるのかもしれない。

ちなみに、あらためて「恋人にしたいジブリ男子」でググってみると、パズーについては「街はずれに持ち家があるから結婚相手に良い」という至極冷静かつ具体的な指摘までなされていて、思わず笑ってしまった。持ち家のことなんて気にもしてなかったよ……。

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持ち家……。

無題

大きい地震が起こると、必ず思い出すことがある。

2011年3月11日、私は本屋さんで働いていて、東京の取引先の人と電話で話をしていた。たしか、新刊の追加納品に関することだったと思う。打ち合わせが終わり、さてそろそろ切ろうかな、というところで、相手が不意に「あ、わ、地震が……」と口走った。

「え、大丈夫ですか?」
「……いや、ちょっと、大丈夫じゃなさそうです」

挨拶もそこそこに切れた電話で、相手が「大丈夫じゃなさそう」と言ったのが気になった。いつもならばビジネスライクに体裁を整え「大丈夫」と言いそうなところを、敢えて「大丈夫じゃなさそう」と応えるほどの地震って?

「なんか、東京で地震があったみたいですよ。“大丈夫じゃない”って言ってましたけど……」

その後、ネットニュースで震源地が東北のあたりだということを知った。ただ、文字だけのニュースではあまりピンとこず、地震の多い日本ではいつものことだと、次第に「大丈夫じゃなさそう」の違和感は薄れていった。

その日の勤務は遅番だったから、そのままいつものように仕事を続けた。レジを打ち、本の発注をし、お店のブログを更新し、Twitterへ投稿した。

夜。自宅へ戻り、テレビで津波の映像を見て、ようやく、ことの重大さを知った。

翌日、店長から、私が投稿したツイートに一部非難の声があがっていたと知らされた。こんな大変なときに、よくも呑気に宣伝ができるな、Twitterで連絡を取り合い、行方不明者を必死で探している人もいるのに、ということらしかった。

私が働いていた書店は当時からわりと有名で、お店のアカウントには相当な数のフォロワーがいた。現在のフォロワー数から考えても、2011年の時点で既に3、4万人はいたんじゃないかと思う。そのなかには、東北に住んでいる人、東北に家族がいる人も大勢いただろう。

そのころの私は、Twitterにはまったく関心がなく、投稿の仕方も、ブログを更新し、あるボタンを押せばTwitterにも投稿される、ということしか知らなかった。情報がごちゃごちゃしていて読み方が分からなかったし、どのように使われているのかも知らなかった。

私が謝るより先に、店長は、悪いことをしたわけじゃない、気にする必要はない、こっちでなんとかしたから、と言い、それでも私が「すみません」と言うと、謝らなくていいと早々に話を切り上げた。

暴言ですらない、ただのお知らせでさえ、誰かを傷つけたり、誰かの邪魔をする。そんなこと、今までに一度も考えたことがなかった。自分の認識の甘さや、無知が、確実に誰かを傷つけたという事実に落ち込んでいた。

あれからずいぶん時間がたったけれど、私は今でも、あの行き過ぎた自粛の空気が恐ろしい。私はまた知らないうちに、誰かのことを傷つけてしまうかもしれない。このコロナ禍でもそうだ。たとえば、私がフォローしているアーティストの、ある悪意に対するツイートが、突如としてバズったときのことを思い出す。

そのツイートは、ある人物の悪意を含んだ行為に対して、ことさら糾弾するでもなく、そのときの率直な気持ちを、そのまま書いたような内容だった。だからこそ多くの人にシェアされ、いくつかのコメントも寄せられていた。

コメントを寄せている彼らはもちろん、自身の良心において、そのツイートに賛同していた。ただ、その良心が別のかたちの悪意になっていることに気づいていない人もいるようだった。たとえば「そんな奴は、苦しんで死ねばいい」というような。

良心でさえ、行き過ぎると悪意になり得るんだと心底ぞっとし、こんなコメントを一方的に寄せられて、きっとしんどいだろうな、と思った。

ただのお知らせも、そのときの率直な気持ちも、受け取る側の受け止め方で、かたちが変わってしまうことがある。私も例外ではない。自分の好きなもののあれこれを、好きなように受け止め、好きなように書いている。“私”という偏ったフィルターを通し、歪にしている。

最悪なのは、自分の間違いに気がつかないことだ。それを避けるためにも、いろいろなものを見たい。自分の目で見て、自分の頭で考えることができたら、自分の間違いも見つけられる。