部屋と沈黙

本と生活の記録

ゴールデンウィーク2018

2018.5.3 thu.
ゴールデンウィーク後半初日。列車の混雑状況がピークを迎えたというニュースを見ながら、いつもと同じ休日を過ごす。
昨日の大雨に打たれた植木鉢を日向に移し、洗濯。晴れてはいるものの、風が強い。
明日は友人宅で飲む。

2018.5.4 fri.
寝違えたせいで上手くうがいができない。風の強い日が続く。

二度目の挑戦にして温泉卵作りに成功。レシピに「温泉卵」とあれば概ね「市販」とあるから、プロの料理家をもってしても手作りするのは難しいものだと思っていた。お昼のぶっかけうどんに添える。
夕方、徒歩数分の友人宅へ。茄子のミートグラタンとビール、アイスクリームを持ち込む。6時間ぶっ続けで飲み食いお喋りしていたら、喉はイガイガ頭はガンガンしてきたため、帰宅。ひ弱になったものよ。

2018.5.5 sat.
昼前に起床。頭痛は治まったものの、まだ喉が痛む。食欲もない。コーヒーをいれ、昨日のお礼も兼ねて友人へメール。

明日は雨の予報。今日のうちに植物どもの植え替えを終わらせるべく園芸店へ。土と鉢を買い足し、ついでに新しい植物も買う。手前が桜色カリシア、奥がグリーンネックレス

今年の熊童子の様子。年々怪獣じみてきている。大きく育てるために鉢増し。

少し前にダイソーで買った徒長気味の月兎耳。100円均一の多肉植物は弱っている株が多い。初心者が手に取りやすい価格だけれど、初心者こそ園芸店で元気な株を買うべきだな。

祖母からもらった十二の巻(?)からは、いつのまにかランナーが伸びている。見た目のわりに根が旺盛。
奥のセンペルビウムは増えまくった子株を外し、大きめの浅鉢へ。おそらく、こいつらがまた子株をつけ、数年後には群生しているだろう。

昨日の、茄子のミートグラタンの余りをパスタにして晩ごはんとする。

2018.5.6 sun.
ゴールデンウィーク最終日。
録画していたレイチェル・クーの料理番組を見る。「天然素材なの」と言いながら、ペンキ用のハケで溶き卵を塗る大胆さに脱帽。その是非はともあれ、概念を超えられる身軽さこそクリエイティブだと思う。「ペンキ用」という狭い枠のなかだけで生きているのはもったいない。


今週のお題ゴールデンウィーク2018」

山口アーツ&クラフツ 2018

山口アーツ&クラフツへ。前の日の夜にアイロンをかけた縞のワンピースに、麦わら帽子をかぶって行く。この格好にピクニックバスケットを合わせるのはあまりにもロマンティックすぎるかと(年齢的にも)ためらいつつ、でも好きだから仕方がない。

今年はこのふたつ。
〈コバルトグラスラボ〉のガラスの器は色に惹かれて。底に向かって少しずつグラデーションをかけているそう。本当に綺麗。眺めているだけで幸せな気持ちになる。
〈陶器つる岡〉の器は、蕎麦猪口にも、湯呑みにも、コーヒーカップにもよさそう。好きな雰囲気の器ばかりで、あれこれ10分以上迷う(カップか鉢か飯碗か……)。

去年、輪花鉢を買った〈グラスタイム〉では格好いいガラスの蓋物を見つけたものの、貧弱な懐具合で手が出せず……。木工ブースで見かけるシェーカーボックスも同様。

弥五郎ドーナツでクルミとチョコのドーナツを買い、おやつとする。

距離感の物差し/チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション

2018.3.10 sat
山口情報芸術センター

それじゃあこれから、チェルフィッチュの『三月の5日間』っていう芝居を観てきた感想を書こうと思うんですけど、あ、観てきたのはこのブログを書いてるYって人なんですけど、それで観てきたんですね、3月の10日に。
車を運転して、途中セブンでコーヒーとドーナツを買ったんですけど、カーステにスカートの『20/20』を入れてご機嫌ご満悦、「視界良好」って感じで、それで、『三月の5日間』が終わったあと車に乗り込んだら、なんか超いい匂いがするとか思ったんですけど、置きっぱなしにしてたコーヒーからコーヒーの超いい匂いがするとか思ったんですけど、思いながら運転してうちに帰ったんですけど、これから書くのは、その少し前に観終わった『三月の5日間』っていう、イラク戦争が始まった2003年3月の東京の、若者たちの5日間を描いた芝居のこと。

2003年の3月といえば、Yは18歳だったんですけど、ちょうど高校卒業と大学入学の年で、初めて一人暮らしをするっていう、そういう時期だったんですけど、だからなのか、戦争のことなんて殆ど気に留めてなかったんですよね、一人暮らしの部屋のカーテンとか洗濯機を選ぶことに夢中で、たとえばラブホの隣に、ミッフィーちゃんの隣に、デモの隣に、ディズニーストアの隣に、コンドーム3ダースの隣に、もちろん、Yが選んだ洗濯機の隣に、具体的な戦争があっただなんて、知っていたけど今知った、今思い知ったすみませんって感じだったんですけど、『三月の5日間』の若者たちの、どこまでも「わたし」から抜け出していくような話し方だとか、語りと乖離している身体の動きだとか、そういう誰も「わたし」ではない、誰も本当の当事者ではないその感じが、そのときの戦争との距離感っていうか。

だからまあ、物語かと思って受け取りに行ったら物差しだったっていう。受け取った直後は何がなんだか分からなくて、愕然とコーヒーの超いい匂いがする車を運転してうちに帰ったんですけど、『三月の5日間』で使われていた表現を真似て、こんなふうに文字に起こしてみたら、ああ、『三月の5日間』は、物語というより距離感の物差しだったんだなって、ようやく腑に落ちて、わたしもこれと同じ物差しを前から持っていたんだってことに、Y自身、ようやく気がついたんですよね。

三月の5日間[リクリエイテッド版]

三月の5日間[リクリエイテッド版]