部屋と沈黙

本と生活の記録

瀕死くらいでやってみる

正確なきっかけは忘れてしまったけれど、19か20の頃に、今の言葉で書かれた現代短歌を読んでから、短歌のことがずっと好きだった。学校で習った文語体の短歌とは違って、こんなのも“あり”なのか、とびっくりしたのが始まりだった。

その後、本屋さんで働いていたときに「穂村弘はおもしろいよ」と教えられ、エッセイやアンソロジーから短歌の世界を広げていった。歌人が持つ眼差しの特異さに憧れていた。

短歌はひとまず、同じかたちに小さく折りたたまれている。けれど、言葉を開いて折り目をのばせば、展開図はすべて違う。もしかしたら内側には何かが包まれているかもしれない。それは種かもしれないし、砂かもしれないし、匂いかもしれない。

短歌を読んでも詠まなかったのは、おしゃべりがすぎる自分には合わないだろう、と思っていたからだ。とにかく色々と書きたくなってしまう。書きながら考えていると別の枝葉が伸びて、もっと書きたくなった。31音のストイックさに、私は馴染まないだろうと考えていた。

でも本当は違う。ただこわかっただけだ。たとえば一冊の歌集を読み通すことができないのは、確実に打ちのめされるからだった。31音掛ける245首、322首、264首の美しい散弾に撃たれて死んでしまうからだった。自分自身の言葉の未熟さ、欠けた眼差しを目の当たりにして、死ぬ。

大きな悲劇さえなければ、この国の義務教育よって誰もが読み書きを学ぶことができる。言葉は多くの人に開かれている。楽器ができる人にも、絵が描ける人にも、素早く走ることができる人にも、言葉は開かれている。でも私には言葉しかない。

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言葉とあなた。あなたの方が断然大事なのは当たり前だ。もしも短歌にまつわるあれこれで死にたくなったら、迷わず短歌を捨ててほしい。あなたと短歌。天秤にかける必要もなく、捨てるべきは短歌だ。
木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』より

木下龍也の『天才による凡人のための短歌教室』が他の入門書と違うのは、短歌を捨てろ、と書いてあるところだと思う。少なくとも、私が今まで読んできた入門書やアンソロジーには、そんなことなど一言も書かれていなかった。優しく誘い、楽しさを分けてくれるような本ばかりだった。

それなのに私は、捨ててもいいと言われて初めて、短歌をやってみようと思えたのだ。

まずは一冊の歌集を読み通すところから始めよう。幸い、図書館や本屋さんへ行かなくても、歌集は本棚に2冊あるし、エッセイ、評論、入門書、アンソロジーも取り揃えている。実は、共著の『今日は誰にも愛されたかった』も、1年前に買って持っている。

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雪舟えまの『たんぽるぽる』に至っては、限定特典の缶バッチもある。読み通して、撃たれて、死ん……だら終わりなので、これからは瀕死くらいでやってみよう。

手始めに、私が惹かれ、私が恐れる短歌そのものについて詠んでみた。まずはひとつ。案の定、色々と書きたくなって「解題」をくっつけてしまったけれど、きっと野暮なんだろうなぁ……。


三十とひとつにかける算段の真意をあかくひらく散弾


解題
「三十とひとつに賭ける算段」と「三十とひとつに欠ける算段」。三十一音というひとつの詩歌に賭けた他者の眼差しを認めても、自身の算段に欠けがあっても、いずれにせよ打ちのめされ、破れた傷口が開いて死ぬ。どちらのルートを選んでも、たどり着く先は同じだから、二つの「かける」を掛けて平仮名に開いた。

「あかく」を平仮名にしたのは、ただの「赤」だと感覚的に足りないし、かと言って「紅く」するとX JAPANになってしまうから。私にとっては“赤黒い澱”っぽいものが血の色に近い。また「算段」と「散弾」の同音異義語を繰り返しているので、「あかく」と「ひらく」で「く」を繰り返し、「ひらく」も平仮名に開いて「あかく」と並べ、双子のような印象を持たせた。


おまけ
ちなみに、しょうもない俳句も詠んだことがある。

天才による凡人のための短歌教室

天才による凡人のための短歌教室

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

今日は誰にも愛されたかった(1200円+税、ナナロク社)

「大人1枚」分の飛沫

きのうの夕方に家事のほとんどをすませてしまったから、今日は朝から本を読んでいた。

サイドテーブルの上に




板チョコレート

が積み上がっている。

金曜日、仕事帰りに寄った図書館は閑散としていた。閲覧台の椅子は間引かれ、作り付けのソファには養生テープでバツ印がつけられている。そのバッテンとバッテンのあいだで目を閉じていた彼女はおそらく眠っていたのだろう。

紫外線で本の殺菌消毒をする機械は動かない祠のように安心を祀っている。それが動いているところを見たことがない。私はあまり気にならないけれど、気にしたほうがいいのだろうか。分からない。何が正しいのか分からない。それを動かそうとする人は、もうここへは来ない気もする。

周南市美術博物館でやっている猪熊弦一郎展へ行きたいと思いながら、たとえば「このご時世、土日に美術館へ行くなんて」という文章を目にすると迷ってしまう。垢抜けない地方のフリーペーパーと一緒にポストへ投函されていた展覧会のチラシの隅に、50円の割引券が付いている。私はそれを三角形に切り取ってしまいたい。ほんの「大人1枚」分の飛沫だから、許してほしい。

県内でこの調子だから、このまま4月にバンアパ主催のフェスが開催されたとしても、私はきっと行けないだろう。気持ちがくさくさする。だってさ、バンアパは当然として、渡邊忍もおそらく出演するだろうから、ものすごく楽しみにしてたのよ。iPhoneのロック画面を渡邊忍にするくらい楽しみにしてたの。インターメディアテクにも行ってみたかったし、古書店とか雑貨屋さんとか、春の夜に光る東京タワーも見てみたかった。

でも仕方がない。これはただ“仕方がない”ことなのだ。

正しさを提示しないまま他者を非難し、溜飲を下げるようなことはしたくない。それを悪とみなすなら、正しさを教えてほしい。ハッシュタグになんかまとめてほしくない。非難ではなく批判でもって、何が正しいのか分からない私に教えてほしい。

目が覚めたときには、栞の代わりに挟んでおいた左手の親指が痺れていた。

私は偏見のかたまり

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ある政治家の「女性が多い会議は時間がかかる」という発言が国内外で波紋をよんでいるというニュースを見かけて、以前、うちの上司が誰かのハゲ*1を笑っていたときのことを思い出した。

「最悪!そういう言い方嫌いです!自分ではどうしようもないことをあげつらって笑うとか……まじで嫌、ほんとに嫌いです!」みたいなことを私が言うと、上司は余計におもしろがって誰かのハゲがどうのこうのと言い始めるから、私も必死になってその見知らぬ誰かを庇い続けた。

当事者不在の謎の押し問答を繰り広げながら、ふと、もしかしてこんなふうに私が必死で庇うことも、ひとつの偏見なんじゃないか、と思う。頭髪の有無において、ことさら熱心にハゲの肩をもつ。ついでに、その必死さが余計に当事者を傷つけるのかも、とも。

ハゲを笑う。ハゲを庇う。なんていうか、ベクトルが違うだけで、力の大きさは同じなんじゃないか。いずれにせよ結局は私もまた、偏見から逃れることはできないのだ。

偏りのない心は美しい。そう思っていたから、できるだけフラットな視点で物事を見つめるように努めてきた。でも、ここ最近、その考え方が少しずつ変わってきている。そもそも偏っているのなら、過剰でありたい。良い感じに偏りたい。偏愛、みたいなものだ。好きという気持ちでずぶずぶにえこひいきしてみたい。

言葉足らずが誤解を生みそうでこわいけれど、偏見っておもしろくない?斜めから見るとまた違った見え方がするように、偏った見方が不意に確信をつくことがある。いつもいつもおんなじ場所から眺めていては、きっと一生見ることができない。新しい風景が、すぐそこにある。

今後、誰かのなかの偏見に気づいたときは、自分のなかの偏見を点検する機会にしよう。自分が偏っていることを、きちんと自覚しておきたい。私は偏見のかたまり。えこひいきするし、肩入れもする。私は、これからもっと、より良く偏って生きる。

*1:私たちは『薄毛の方』って言わなくちゃいけないの。ハゲって、ほら、差別用語なのよ。私、一度冗談で『頭髪の不自由な方』って言ってみたの。そしたらすごく怒られちゃった。/村上春樹ねじまき鳥クロニクル』より