部屋と沈黙

本と生活の記録

それはすべて同時に起こる、起こっている、起こった『淵の王』

f:id:roomandsilence:20160522195255j:plain:right舞城王太郎
※当記事は、物語の内容、構成に関しての言及があります。先入観を持って読んでしまうにはもったいない作品だと思いますので、「こいつ勝手なこと言いだしたな」と感じたら、薄目でざらっと読みとばしてください。私は概ねそういうふうに〈先入観〉及び〈ネタばれ〉を回避しています。ちなみに本作は、2016年twitter文学賞国内第1位を受賞しています。

中島さおり、堀江果歩、中村悟堂それぞれが巻き込まれていく怪異を、ある意味霊的な、正体不明の何者かが物語る『淵の王』。読み終わった直後の率直な感想は、「なんかようわからんけど、すっごいおもしろかったな~」。ようわからんままにおもしろがらせるなんて、笑っちゃうくらい素晴らしいと思う。

とはいえ、この「正体不明の何者か」の正体は、読み進めていくうちにわかる。つまり、中島さおりの物語を〈存在しない存在〉の堀江果歩が語り、同様に、堀江果歩を中村悟堂が、中村悟堂を中島さおりが物語る。この字面だけを見ると、転生もしくはループもののように感じられるかもしれないが、ここに時間は関係ない。それはすべて同時に起こる、起こっている、起こったのだ。実体としての彼らと、実体のない語り手としての彼らの行く末のすべてがリンクしていることからも、そう考えられると思う。

具体的には、中島さおりは友だちの伊都を、語り手として悟堂を救う。中村悟堂は「お前しかいない」と思っていた湯川虹色を、語り手として「君しかいない」と思っていた堀江果歩を失う。堀江果歩は存在しないはずのグルニエ(屋根裏部屋)へと消え、語り手としても暗い穴に飲みこまれてしまう。

もしこれが転生であるならば、〈次〉の場において何かしらの足掻きと、それにともなう変化があるはずだ。それがない。彼らには「今、ここ」しかない。

それとも過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在してて、何かが開いてるページ、あるいはその何かが読んでる文字、そういうのが今ってこともあるかな?

幽霊(?)が語る幽霊話なんていう冗談みたいな人称設定と、メタフィクション的な構成は、読書好き、物語好きにとってたまらんだろうなと思う。すべてが同時に起こる、起こっている、起こったのならば、必ずしもハッピーエンドとはいえない結末ながら、「今、ここ」しかない彼らの悔しさ怒り喜びは、今を生きるしかない私たちにも通じるし、つまりはウサギちゃん大草原大勝利である!