部屋と沈黙

本と生活の記録

距離感の物差し/チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション

2018.3.10 sat
山口情報芸術センター

それじゃあこれから、チェルフィッチュの『三月の5日間』っていう芝居を観てきた感想を書こうと思うんですけど、あ、観てきたのはこのブログを書いてるYって人なんですけど、それで観てきたんですね、3月の10日に。
車を運転して、途中セブンでコーヒーとドーナツを買ったんですけど、カーステにスカートの『20/20』を入れてご機嫌ご満悦、「視界良好」って感じで、それで、『三月の5日間』が終わったあと車に乗り込んだら、なんか超いい匂いがするとか思ったんですけど、置きっぱなしにしてたコーヒーからコーヒーの超いい匂いがするとか思ったんですけど、思いながら運転してうちに帰ったんですけど、これから書くのは、その少し前に観終わった『三月の5日間』っていう、イラク戦争が始まった2003年3月の東京の、若者たちの5日間を描いた芝居のこと。

2003年の3月といえば、Yは18歳だったんですけど、ちょうど高校卒業と大学入学の年で、初めて一人暮らしをするっていう、そういう時期だったんですけど、だからなのか、戦争のことなんて殆ど気に留めてなかったんですよね、一人暮らしの部屋のカーテンとか洗濯機を選ぶことに夢中で、たとえばラブホの隣に、ミッフィーちゃんの隣に、デモの隣に、ディズニーストアの隣に、コンドーム3ダースの隣に、もちろん、Yが選んだ洗濯機の隣に、具体的な戦争があっただなんて、知っていたけど今知った、今思い知ったすみませんって感じだったんですけど、『三月の5日間』の若者たちの、どこまでも「わたし」から抜け出していくような話し方だとか、語りと乖離している身体の動きだとか、そういう誰も「わたし」ではない、誰も本当の当事者ではないその感じが、そのときの戦争との距離感っていうか。

だからまあ、物語かと思って受け取りに行ったら物差しだったっていう。受け取った直後は何がなんだか分からなくて、愕然とコーヒーの超いい匂いがする車を運転してうちに帰ったんですけど、『三月の5日間』で使われていた表現を真似て、こんなふうに文字に起こしてみたら、ああ、『三月の5日間』は、物語というより距離感の物差しだったんだなって、ようやく腑に落ちて、わたしもこれと同じ物差しを前から持っていたんだってことに、Y自身、ようやく気がついたんですよね。

三月の5日間[リクリエイテッド版]

三月の5日間[リクリエイテッド版]