部屋と沈黙

本と生活の記録

『インヒアレント・ヴァイス』/卵はそれを避けることができない

15時、『インヒアレント・ヴァイス』を観る。常温の本麒麟が回ったのか、眠気に負けて一時停止。深刻そうな顔のホアキン・フェニックスがこちらをじっと見ている。髭の生え方が山田孝之と一緒だ。

トマス・ピンチョンの原作をポール・トーマス・アンダーソンが映画化した本作。邦訳された『LAヴァイス』を読んだとき、「目で見られたらいっぱつなのに」と書いたけれど、目で見てもさっぱりだった。

2月16日(日)晴れ
LAヴァイス』を読む。ピンチョンの著書の中では読みやすいとされている作品みたいだけど、かなり混乱した。人物図をつけながら読むべきだったのにそうしなかったから、誰が誰だかよく分からないことも多かった。ひとつひとつ、物を並べる作家で、映像的というか、ほんとにこと細かく描写してあって、目で見られたらいっぱつなのに言葉だから反乱を起こす。本筋は読めてると思うけど……。一人ひとりの〈悪意〉が独り歩きして、いつのまにか〈悪意〉そのものにあやつられている。ものすごく見当違いなこと言ってるかも。


映画の終盤、自宅のドアを蹴破って入ってきた〈ビッグフット〉とのやりとりで、ドックが泣いていたのが印象的だったな。「でも“番人”がついてないと」って。臭くてヨレヨレのヤク中探偵だけど、いちばんピュアなのはドックなんだって分かる。〈悪意〉に飲み込まれてしまわないように、いつも“誰か”のために行動する。

卵は割れる、チョコレートは溶ける。あらゆるものに〈インヒアレント・ヴァイス〉=〈内なる欠陥〉があって、卵はそれを避けることができない。〈内なる欠陥〉によって壊れてしまう人たちもまた、自らが壊れていくのをただ見ていることしかできないのかもしれない。コーイとホープを救ったドックになら、卵をゆで卵くらいにすることはできるだろう。しかし、〈内なる欠陥〉のどうしようもなさは、それこそ、すぐ近くにいるのに泣きながら見ていることしかできないほどのどうしようもなさで、それがすごく寂しい。

本作では〈語り〉の存在感も強かった。市川準監督の『トニー滝谷』ほどではないけれど、〈語り〉が原作の一節をただ朗読しているような印象を受ける。村上春樹にせよピンチョンにせよ、語られる言葉に強い力があるとき、その言葉の外に出ることは、とても難しいことなのかもしれない。