部屋と沈黙

本と生活の記録

『ジョーカー』

ストーリーは至ってシンプルだ。世間に虐げられ続けた社会的弱者の男が、やがて凶行に至るまでが描かれる。ただし、本編は小説で言うところの「信頼できない語り手」であるアーサー(ジョーカー)の目線で語られるため、観終わった直後は戸惑いの方が大きかった。また、アーサーの人物像が、私の思い描いていたジョーカー像(狡猾で抜け目のないサイコパス)とはかけ離れていたことも、本作を飲み込みづらいものにしていた。とはいえ、私のジョーカー像なんて数年前に一度観たきりの『ダークナイト』だし、あとは『レゴ バットマン ザ・ムービー』だからな。

この映画の掴みどころのなさは、まさに“ジョーカー”というキャラクターそのものである。気軽におすすめはできない。でも、観て損はしないと思う。観るかどうか迷っているなら、絶対に観た方がいい。とにかくホアキン・フェニックスの怪演が際立つ。もはや“演じる”ことを超えた、血と肉と骨だ。

以下、ネタバレを含め、私が気になったポイントごとにまとめてみた。


何が現実で何が妄想なのか
老いた母親の世話をしながら、コメディアンになることを夢見るアーサー。物語が進むにつれて、彼と彼の母が妄想症を患っていることが明かされる。それと同時に、アーサーとブルース(バットマン)が異母兄弟である可能性も示唆されている。

ブルースの父であるトーマス・ウェインに思い入れがあるファンにとっては、異母兄弟だなんて、アーサーらの妄想として切り捨てたいに違いない。けれど、個人的には、異母兄弟でないにしても、アーサーの母とトーマスのあいだには肉体関係があったと確信している。この映画の主題は、誰もが抱える罪もしくは悪の性質だと思うからだ。それは、英雄や善人も例外ではない。

これとは逆に、アーサーの妄想じゃないかと思うのが、終盤のジョーカー復活シーンである。少しセンチメンタルにすぎるし、身勝手な殺人が神の如く讃えられるなど、まさに趣味の悪いジョークでしかない。


ジョーカーとは何者か
スピンオフ作品を鑑賞するうえで気になるのは、シリーズとの繋がりだろう。

本作のアーサーは、いずれ『ダークナイト』でバットマンと対峙するジョーカーとは別人ではないかと思っている。とてもじゃないが、行き当たりばったりに殺人を犯すアーサーが「悪のカリスマ」だとは思えない。むしろ、人々が抱く悪意に分かりやすいアイコンを与えたのが、カリスマでもなんでもない社会的弱者のアーサーだった、と考えたほうがおもしろい。

多かれ少なかれ、我々はみな悪意を抱く。悪意は伝播し、群衆となる。ジョーカーという仮面は引き継がれ、やがて一人歩きしていく。ラストシーンの血塗られた足跡は、ゴッサム・シティの行く末を暗示しているのだ。


アーサーとは何者か
この映画いちばんの見所は、ジョークを思いついたと言うアーサーが、先を促すカウンセラーに対して「理解できないさ」と答えるシーンだ。コメディアンを目指し、あれほどまで世間に認められたいと願っていたアーサーが、初めて理解されることを拒絶する。このときにこそ、アーサーはアーサー自身になったのだと思う。

ただ、アーサーが“ジョーカー”になったのかと問われると、なんとなくしっくりこない。もともと含まれていたものが大きく膿んでむき出しになった、という印象なのだ。いずれにせよ、彼が彼自身であることに後ろめたさを覚えることは、もうないだろう。アーサーは、社会の歪さと呼応するように、自己を完成させていったのだ。