部屋と沈黙

本と生活の記録

無用の用

何の役にも立たない、どうでもいいことを書きたい。たとえば、通勤中の車の中で、犬が犬を見ている、という状況に出くわし、思わず「犬が犬を見ている!」と一人実況した直後、その言葉の中にもやはり犬が2匹いて、その倍増しの可愛さに和む、みたいな。たとえば、イオンのセルフレジが「ワオン!と鳴くまでタッチしてください」などと言い、「鳴る」でも「音がする」でもなく「鳴く」と、あくまで犬として取り扱っている感じが非常に良い、みたいな。

お役立ち情報なんて、ただ役に立つだけじゃねえか。役に立って、それで終わり。音楽や演劇は「役に立たない」からと、彼らが支援を求めても、「役に立たないくせに」と切り捨てるような発言をする輩はなんなんだ。犬とか猫なんて、とりたてて役に立たなくても一生可愛いぞ。一生。役に立つことがなんぼのもんじゃ、腹立つな。「役に立つ」ことだけを価値基準にしてしまうと、己の首まで締めかねんことに気付いているのだろうか。

お前は、本当に、役に立っているのか?
何かの拍子で役に立たない存在になってしまったとき、お前は自分自身を許せるか。

腹立ちまぎれにむちゃくちゃ書いたが、「役に立つ」ことに価値があるように、「役に立たない」ことにも価値があると信じたい。

とはいえ、私の考えは甘いのかもしれないとも思う。もともと収入は低いものの、そこから減ったわけではないし、養わなければならないのは自分自身だけで、ブログで腹を立てる元気もある。そんな人間の物言いなんて、生きるか死ぬかの人たちからすれば、机上の空論でしかないだろう。私だって“輩”と変わらない。ほんと、なんなんだ。苦しい。苦しいことさえ、おこがましい。

“MUSIC UNITES AGAINST COVID-19”のフォルダにある向井秀徳アコースティック&エレクトリックの『ロックトランスフォームド状態におけるフラッシュバック現象』を繰り返し聴く。

中止になってしまったペトロールズのライブチケットを払い戻し、それに上乗せするかたちで、地元のライブハウスを支援した。寄付なんて、高潔なものでもなんでもない。誰かを支えているようでいて、結局は自分のためだ。ライブハウスで音楽が聞けなくなったら、私が悲しい。



心よ 明日は より強くあれ