部屋と沈黙

本と生活の記録

“私”を翻訳する私

f:id:roomandsilence:20200704215717j:plain:w400

コーヒーとドーナツの朝食を済ませ、顔を洗い歯を磨いたあとは、パジャマにしている擦れたTシャツの上からスウェットをかぶり、ソファに寝転んで“MONKEY”を読んだ。

面白そうな作品の近くには大概、柴田元幸岸本佐知子がいる。訳者、解説、帯の文句、海外文学ビンゴゲームのアタリみたいな人たちだ。今回は岸本佐知子が「魂の双子」帯を、柴田元幸が解説を寄せ、マーク・トウェインヘミングウェイフラナリー・オコナーから続く「すぐれた声」の持ち主として、トム・ジョーンズを評している。


「作品の近くに柴田元幸岸本佐知子がいるなら間違いない」と、海外文学を読むときの“しるし”として信頼していた“柴田元幸”が、このあいだの、古川日出男『おおきな森』刊行記念対談以降、“柴田元幸先生”になった。

対談中、柴田先生は「うーん、違うなぁ……」とつぶやきながら言葉に詰まり、何度も言い直していた。その様子を見て、私はほとんど直感的に「この人の言葉は信頼できる」と思ったのだ。柴田先生は絶えず、作家や自分自身のなかに存在する“voice”に耳をすませ、その「声」に添う言葉を探している。そのことがよく分かった。この人の言葉は信頼できる。この人の翻訳は信頼できる。だから、「尊敬しているので、つい先生をつけてしまいます」。

“MONKEY”21号の特集「猿もうたえば」を、とてもおもしろく読んだ。

ブレイディみかこの“Everyday is like Sunday,isn’t it?”では、「何かが変わっていくさなかにあるんだ」と感極まり、思わず泣いてしまう。ただ、何がそんなに感極まったのか、自分でもうまく説明できない。そういうことがままある……なんて書くと、情緒不安定な奴だと思われそうなので、普段は素知らぬふりをしている。「全米が泣いた」とか「号泣しました!」とかいう安易な宣伝文句が大嫌いなくせに、一人でいればわりと安易に泣いてしまうので、自分でもどうかしてると思う。

ジーシー・ワイリーの「最後の優しいことばブルース」を取り上げたグリール・マーカスの『消える、忘れる』も、素晴らしく示唆に富んでいる。私は本当に何も知らないよね。ジーシー・ワイリーもグリール・マーカスも知らなかった。それなのに、私が知りたいと思っている「何か」を指し示してくれる文章がいくつもある。一文だけ引用する。

ーー両方の言葉を同時に歌っているのだ。

私は、自分自身の思考や感情を書き留めることも、あるいはただ日記をつける行為でさえも「翻訳」といえるんじゃないかと思っている。私は“私”を言葉に置き換える。話す、書く、歌うことで、私は“私”と重なり合う。“私”を翻訳するのは私だ。そんな気がする。

読み進めながらスマートフォンのメモアプリに打ち込んだ文章を、感想の代わりに置いておく。


短い言葉の集まりに、たとえば詩が含まれるとき、私たちは同じ部屋にいる
私たちみんな違う姿かたちをして、同じ部屋にいる
部屋の扉は開け放たれて、私はそこに居てもいい
そのままそこを通り抜けて、私は出て行ったっていい



14時、京都大学オンライン公開講義「自己とは何か:“われわれとしての自己”とアフターコロナ」のライブ配信を観る。“私”のいちばん近くにいるはずの“私”が、実はいちばん“私”を知らない。自己から始まる哲学が、いちばんとっつきやすくて、いちばん難しい。それが、すごくおもしろい。次の講義が楽しみ。“むかしのおっさん”と“いまのおっさん”が言うことをよく聴いて、“私”のことを考えてみたい。