部屋と沈黙

本と生活の記録

諦めるのを諦める

もしかすると私は、恋に落ちたことがないのかもしれない。大抵は「落ちる」というより、地下へ続く階段を下りていくみたいに、人を好きになった。

何かにつけ、距離とバランスを保とうとしてしまう私は、ひとりの人やひとつの何かを、ただひたむきに信じてしまうことを恐れていた。人やものが発する気分に引っ張られやすいたちで、自衛のための潜在的ソーシャルディスタンス、みたいな。行きつ戻りつ、たまに三段飛ばしで転がり落ちもするけれど、とにかく、いつでも引き返せるようにしていた。自分を見失うのが怖かった。

それでも、過去に一度だけ、気がついたら地下3階くらいにいたことがある。恐怖は好奇心の裏返し。暗く、自分の輪郭が曖昧になるくらいの深いところで、盲信してしまいそうな予感は実感になっていた。

そして唐突に、ひとり取り残されたのだ。

口にしようのない苦しみ、力を奪う絶望、悪魔的に激しい憤怒、頭につねに浮かび徐々にーーあたかも誰かの死を悼むかのようなーー一種の喪へと変わっていく悲しみの雲。
『闇の中の男』ポール・オースター/柴田元幸

喪失にかたちがあるなら、きっとこんなだろう。長いあいだ、私は自分の感情とうまく折り合いをつけられないでいた。

そんなとき、甥っ子が生まれた。とりたてて「子ども好き」というわけでもなかったのに、初めて甥っ子を見た瞬間、ぶん殴られるみたいに理解した。足りないものは何ひとつない。今がもう既に完全無欠の最高点で、完璧な存在だ。子どもって、未来そのものだ。

甥っ子や姪っ子のことを思い出すとき、自分を“見失って”いるかどうかは分かんなくても、自分を“失って”はいないと分かる。盲信に似た状況なのに、むしろ腹の底から元気が出てきて、自分の輪郭が押し広げられていく。なんだってできる気がする。その場所は明るくて、地下にいる感じはしない。

もしかしたら、片想いが究極の愛なのかもしれない。たとえ、甥っ子や姪っ子から何とも思われていなかったとしても、私の方はずっと好きだもん。失われる気がしない。失わせる気もない。

年初に、半分悪ふざけで「失恋するための恋がないから、恋をして、失恋する」っていう目標を立てたんだけど、片想いが究極の愛だとすると、失恋はしなくてよくなる。そもそも、ずっと好きでいるなんて、きっと想像以上に難しい。

私が触りたいものは、そう簡単に触れるものじゃない。しかるべき手続きを踏めば、必ず手に入るようなものじゃない。誰かにとっては朝飯前でも、私にとっては晩飯どきで、もうお腹がぺこぺこなのに、ありつけるかどうかは分からない。そういうものだ。

私はわがままだから、欲しくなってしまう。知りたくなってしまう。「理想が高すぎる」なんていう呪いの言葉があるけれど、いったい誰のために、自分が欲しいものを低く見積もったり、諦めたりしなくちゃいけないんだろう。私はもう、諦めるのを諦める。欲しいものは欲しい。

私は今でもひとりでいることが好きだし、ひとりでいることを必要としているけれど、それすら超えてしまうくらいの恋をして、いつか愛に触ってみたい。それを言葉にしてみたい。優しくならないと書けない文章があるみたいに、意地悪にならないと書けない文章がある。私はその両方を書いてみたい。美しいものも、美しくないものも、全部。

触れるかもしれないし、触れないかもしれない。ずっと片想いかもしれない。だとしても、触りたいと言い続ける。一度でも本当を手に入れたなら、失われることはないから。


おまけ
そういえば、思いっきりベタなことをやって自分自身を茶化そうと失恋ソングを漁っていたときに、ドリカムの『あの夏の花火』を聴いちゃって、思わず真剣に泣いたよね。あなたがいてもいなくても、今年の花火は、あの日と変わらず綺麗っていうのが余計に悲しくて、綺麗で、すごくいいと思ったな。あとは、安室ちゃんの『Baby Don't Cry』とか。泣くなって言われても泣いちゃうよ。