もうだめかもしれん。やってしまった。かっこいい音楽レビューなんて到底無理だから、せめて、音楽を聴いて考えたことを、まっすぐ書きたいと思っていたのに。
これ……、シャツを見て思ったことじゃん。音楽どこいったよ!?
たとえ明後日の方向からだとしても、自分なりにまっすぐ、混じりっ気なしで書いてきたつもりだった。にも関わらず、実際に書き上がるのは、音楽とは関係のない思いつきや感想ばかり。……それって本当に「まっすぐ」なんだろうか?そもそもが不純で、初めから混じりっ気ありありだったんじゃないのか。
車を運転しながら、お風呂に入りながら、混じりっ気なしとは、あるいは純粋とは何か、純粋を“0”として、“0”と“0”を足しても“0”になるけれど、“0個のリンゴ”と“0個のミカン”を足したら“0個のリンゴとミカン”になるんじゃないのか、そうすると、足される前の“0”と足されたあとの“0”は違う“0”なんじゃないか、……てゆうか“0個のリンゴ”って何!?、という妄念にとらわれ、改めて気づく自身の不純っぷりにも打ちのめされて、最終的に面倒くさくなり、この文章を書いている。
……もうどうしようもない。私の文章は不純だ。白いシャツが好きだし、袖ばっか見てましたすみません。
可愛い〜!
でもさ、不純な話っておもしろくない?私なら、10個入りの袋から11個目を取り出す人が好き。それはきっと、混じりっ気があるからこそできることなんだと思う。ならば私もよこしまなまま、音楽という袋の中から、音楽以外の素敵なものを取り出してみたい。……とはいえ、ここまでの文章は“音楽の袋”じゃなく“シャツの袋”から出てきたものなんだけど。
気を取り直してフルカワユタカの『オンガクミンゾク』、第4回はライブパートにfox capture planの岸本亮と井上司、トークパートにOKAMOTO'Sのハマ・オカモトを招いた2部構成。
はじめに“ジャズカワユタカ”をやると聞いたときは、スーパーで流れているような“あれ”とまではいかなくとも、中途半端におしゃれっぽいカフェで流れているような“あれ”みたいになっちゃうんじゃないかという一抹の不安を覚えたものの、フタを開けてみればそんなこともなく、むしろ良い感じのアコースティックアレンジに仕上がっていた。
4thアルバム『epoch』収録の「ボトルとサイダー」「デストラクションとクリエイション」も今回のライブアレンジのほうが好きだし、「ドーピング何某」の“Moralist”もかっこよかった。めちゃめちゃ極端な言い方をすると、CD*1の音より、ライブの音のほうが好き。
ライブだと物足りない、みたいなアーティストもいるじゃん、たまに。それってたぶん、メロディにせよ何にせよ、音楽そのものが少し足りなくて、音のつやつや感とかキラキラ*2で補ってるんだと思うのよ。で、ライブのときにそれが剥がれ落ちる。
フルカワユタカのメロディはそのものがきれいだから、ほかの何かで飾り立てる必要がない。ライブの、編集できない空気のざらざらした感じも含めて、そのままを鳴らされると、メロディの良さがより際立つような気がする。
ともあれ、音楽の良さを伝えるのって難しいね。良さがひとつじゃないからなぁ。メロディってこともあるし、ハーモニーってこともあるし、楽器そのものの音ってこともある。高校生のときなんか、吹奏楽部の演奏を聴いただけで泣きそうになったもん。音に圧倒されるというか、どんな楽曲だったか全然覚えてないのに、身体の内側に響く感じがすごくて。
不意に、又吉直樹がNUMBER GIRLのライブを観に行ったときの話を思い出す。
俺はもう、いちばん後ろで、微動だにせず
微動だにしないってことは、もう、ある意味いちばん動いてるってことやから
ちょっと動くよりは、本来、人間はちょっと揺れたりするやんか
微動だにしないっていう、もう、“向き合う”っていうね
筋肉を動かさず、この、内面だけを、より、動かすというか
NHKラジオ「あとは寝るだけの時間」より
もしかしたら、何も言わないのがいちばん純粋で、混じりっ気がないのかもしれない。音楽の良さを伝えるとき、言葉は余計か、少し足りない。私には言葉しかないから、言葉の不完全さを忘れないようにしないと。言葉で何もかも伝えられると思い上がったときに、表現は終わる。
ちなみにハマ・オカモトとのトークパートは、フルカワユタカの過剰な部分が良い方向に出ていておもしろかった。感想は割愛。ほら、何も言わないのがいちばん純粋で混じりっ気なしなら、ちょっと実践してみようかと思って。