部屋と沈黙

本と生活の記録

コロナ禍におけるライブ開催および参加の是非について私が考えたこと

5/1、申し込んでおいたチケットの発券開始を知らせるメールが届いていたものの、緊急事態宣言の対象地域が拡大のうえ延長されたことで、私はきっと5月末のライブへは行くことができない。

このたびの緊急事態宣言では、イベント開催の制限が緩和されたと聞く。このまま開催されるとなれば、私は県境を越え、緊急事態宣言下の地域へ出向くことになる。県のホームページには、赤地に白抜きで「緊急事態宣言区域等への往来は、厳に自粛を!」と大きく注意書きがなされている。

むろん“厳に自粛”したとしても、感染するときはするだろう。程度の差こそあれ、生きている限り、誰もが感染し得るからだ。それでも、生きていくためには生活を続けなければならない。

生活のために働く。都会であれば、満員電車に乗ることもやむを得ないだろう。来客対応に外回り。おなかがすけば食事をとる。新型コロナウイルスかどうかは関係なく、著しく体調を崩せば病院にも行くだろう。もしかしたら入院することになるかもしれない。入院するほどの体調であれば、マスクなんかしていられないことだってあるだろう*1。飲食店はもちろん、音楽や芸術を生業にしている人にとっては、それこそが生活だ。

生きていくためには、誰もが、感染のリスクとともに、生活を続けなければならない。

行く、あるいは、行かない。私がどちらを選んだとしても、結局は誰かが傷つくことになる。だから苦しい。もし私が行けば、“厳に自粛”している人々の期待を裏切ることになり、緊急事態宣言の効果を低下させることになるかもしれない。もし私が行かなければ、ライブに付随して利用するはずだったホテルや鉄道への消費は落ち込むことになるだろう*2。もしかしたら、県境を越える人々を暗に非難しているようにも見えるかもしれない。そんなつもりは微塵もないのに。

新型コロナウイルスが蔓延し始めたころ、甥っ子らが通っていた保育園に「医療従事者の子どもとは別室にしてほしい」との申し入れがあったという。この話を妹から聞いたときは、本当に、心の底から腹が立った。なぜ、甥っ子らが蔑ろにされなければならないのか。幼いころからの夢を叶えて、今も楽しそうに働いている妹が、なぜ、傷つけられなければならないのか。

「東京から来た人」は必ずしも「感染者」ではないし、「医療従事者の子ども」もまた必ずしも「感染者」ではない。私は絶対に「医療従事者の子どもとは別室にしてほしい」と言うような人間にだけはなるまい。感染が拡大している地域から来たというだけで忌避の目を向けるようなことはすまい。自分の頭で考えて、自分で決めよう。その決定で縛るのは自分自身だけにしよう。他者に強要すまい。そう思った。

年齢、性別、出生地や肌の色、性的指向。あらゆる“違い”から、できるだけフラットでいたい。自分ではどうしようもないことを理由に他者から何かを奪われれば、次第に自らの手でも奪うようになってしまう。他者から傷つけられる自分を、自分でも傷つけ始める。そんなかなしいことなんて、絶対に受け入れられない。命に関わる感染症で、こんなことを考えてしまう私は甘いのだろうか?

今朝、ネットニュースで“コロナとの戦い、前言撤回繰り返す首相 国民に響かぬ「軽い言葉」”という見出しを目にしたが、心に響く“強い言葉”など、本当に必要なのだろうか。もし、その“強い言葉”が間違っていたとしたら?この未曾有の事態では、誰もが間違いを起こす可能性がある。その間違いを誰かのせいにして、発言者を切って捨てればそれでいいのか。その言葉を選び、支持したのは、他ならぬ自分ではないのか。

“強い言葉”に抗えるのは、自分の頭で考えることができる人間だけだ。その準備ができているか。あらためて自問する。本当に必要なのはきっと心に響く“強い言葉”などではなく“対話”なんだろうと思う。だから私は書く。啓蒙も扇動もしたくない。ただ伝えたい。私はこういうふうに考えている。

行くか、行かないか。やるか、やらないか。私が悩んだように、バンド側も苦しい選択を迫られているのだろう。いわゆる“トロッコ問題”と同じだ。どちらを選んでも誰かが傷つく場合、どちらかを犠牲にしてもいいのか。

チケットは明日にでも発券しに行こう。開催されてもされなくても、私はバンド側の決定を尊重する。開催されたときは、今日の、この気持ちを忘れないために、冷蔵庫にはって取っておく*3

*1:私が4月に入院したときも、痛みによる嘔吐とそれに伴う高熱で、申し訳ないとは思いながらも、一時、マスクをしていられないことがあった。

*2:実際、私が予約を入れようとしていたビジネスホテルは、このコロナ禍による大幅な減収によって閉業していた。

*3:冷蔵庫は私にとって日常における一等地です。