部屋と沈黙

本と生活の記録

ただごと

きのうに引き続き本を読み、あいまあいまにうとうとしていると、妹から着信があり、これから甥っ子姪っ子を引き連れてやってくるという。

わ!と思い、酒とコーヒーとあったかいほうじ茶しかない、ジュースがない、と慌てているうちにやってきて、赤いVWビートルが来客用駐車場に停まり、ということは母もいる。最初に甥っ子と姪っ子がやってきて、次にケーキの箱を下げた妹と、いちばん下の姪っ子、母が続く。

甥っ子は私、というよりも私が持っている『どうぶつの森』に夢中で、着いて早々「やりたい」と言い出し、しばらく起動していなかったせいか本体とソフトの更新が重なって長引く起動を待ちきれない様子だった。

晩に魚を捌かんといけん、ちょっとしたら帰ると母はケーキの箱を開き、私にベリーのケーキをくれ、いちばん下の姪っ子が選んだケーキの大きさを笑っていた。平米で言うなら0.004。

「あれ、誕生日やっけ?」と私。「いいや」。「Mちゃん(三女)は1月、Hちゃん(二女)は8月やったよね」と妹、「1月、すぐやん」と私、「すぐやないやろ、すぐなのはあんたらやろ」と母。「あんたら」とは、私と妹のことで、生まれ年は違えども生まれた日は1日しか違わない。

「Hちゃん夏生まれ、いいね」、「うん、わたし、8月2〇日」とHちゃん。「え、8月〇日やろ」と妹。「……小学校行くようになったら、ちゃんと言わんとね」と私。

甥っ子は『どうぶつの森』に夢中だ。

甥っ子と姪っ子(二女)が二人で撮ったという、YouTubeのおもちゃ紹介動画を真似た動画を見せてもらい(「〇〇チャンネルで〜す!きょうは、ブロックで遊びま〜す!」)、子どもってほんとにすごいし、あらためてこわいな、と思う。

その動画はとてもうまく撮れていた。YouTubeを検索すれば「ありそう」なくらい。それだけに、YouTubeが子どもへもたらすものに脅威を感じた。できることなら“良いもの”を見て育ってほしい。世の中の“良い”側面を。これはエゴだろうか。

読み差しの本を一瞥し「すごい印がされちょるね」と妹。「いいな、って思ったところとかに付箋しよる」と、なんとなくの気恥ずかしさを振り切るように言う。記憶力に難ありの私は、本を読むときに付箋で印をつける。たまに鉛筆でメモ書きして、そのままはさむ。そうやって見返して、何かを書く。書けそうであれば。

「すごいね、私、全然いいなって思わんもん」と妹は言い、本が好きな母は笑っている。私の「本好き」は母、母方の祖母から引き継がれ、妹や弟には残らなかった。妹や弟が備えているのは、どちらかというと実質的な魅力だった。二人がしっかりしているおかげで、私はぼんやりしていられる。きょうだいなのに、こんなにも違う。

彼らが帰り、再びひとりになって、そういえば甥っ子が「誰もいない、誰もいない」と言いながら私の部屋に入ってきたことを思い出す。

誰もいない。私以外は。

簡単に作れるおかずを一品とサラダを用意して、赤ワインを飲み、晩酌。Amazon musicでピアノジャズのスタンダードナンバーを流し、まじで“the”って感じがして辟易する。スカしてるわけじゃないのに、俯瞰して見ればスカしてる気がする。赤ワインが好きなのは、アルコールの感じがしないのと(ただの渋い葡萄味)、酔った感じがゆっくり気持ちよく持続するからで、ピアノの音、スタンダードナンバーが良いのは当然だ。

なんでだろう、なんで、なんで、たぶん、自分がダサいことに気付いているからだと得心する。お洒落っぽいことが好きな田舎の女の子。女の子、は語弊があるかもしれないけれど、いつまでも女の子でいたい。私はわがままだ。

口が裂けても言わんぞ、と思う。自身のダサさを率先して言うやつがあるか。誰も本当の私を知らない。私の、ある側面を知っているだけ。現実の身体の、思考としての文字の、それらを束ねる人は現れるんだろうか。束ねられる人。

いつも以上に酔っ払いながら書いた、これが私の走り書き、ただごと。つまんないかも、ごめんね。