部屋と沈黙

本と生活の記録

いつかの冗談の旅のために

スマートフォンのホーム画面に設定したカレンダーのウィジェットで、今日が「山の日」であることを知る。たしかいつかの「海の日」に、海にまつわる本とあれこれについて書いたんだった。ならば「山の日」には、山の本とあれこれを書こう。

読みさしの本の山のなかから、串田孫一の『山の独奏曲』を抜き出す。

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線と図形のコラージュみたいな挿絵も良い。

山にまつわる画文集ならば、辻まことの『山からの絵本』も美しい。写真は創文社のハードカバー版。なお『山の独奏曲』と同じヤマケイ文庫でも読むことができる。

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山の随筆には良いものが多い。なんとなく、リズム感が良い人と山登りをする人には、文章の上手い人が多いと思う。山登りをする人は歩きながら考える。それが、良い文章の素地になるんだろうと思う。

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釉薬が雪山のように見える小皿は、近所の雑貨屋さんで買ったもの。あとは、なんだろう……、ヒマラヤ山系君とか?

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阿房と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ。
内田百閒「特別阿房列車」より

阿房列車の道連れヒマラヤ山系君とは、百閒先生の教え子、平山三郎のあだ名である。いわゆる“もじり”で、ヒマラヤ山脈とは関係ない(と思う)。

阿房列車を読み返しながら、ほんのすこしだけしんみりしてしまう。……なんにも用事がないけれど、汽車に乗ってどこかへ行きたい。“冗談の旅行”がしたい。“今”の私たちは、用事がなければどこへも行ってはいけないのだ。

しかし用事がないと云ふ、そのいい境涯は片道しか味はへない。なぜと云ふに、行く時は用事はないけれど、向うへ著いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰つて来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。
内田百閒「特別阿房列車」より

冗談が、ともすれば不謹慎と見なされてしまう“今”を思う。

写真は旺文社文庫版。今は新潮文庫ちくま文庫でも読むことができる。ちなみに新潮文庫版の表紙には、何がそんなに不満なのか、口をへの字に曲げ、こちらを睨みつけている百閒先生の写真が使われている。ただ、よく見てみると、頭に車掌帽をのせ、鉄道員と思しき制服をばっちり着込んでいるんだから、おもしろくてたまらない。

「二等に乗つてゐる人の顔附きは嫌ひである」と言いつつ、結局、二等に乗って帰ってくるのも笑える。一時が万事そんな感じなのだ。“冗談の旅行”はおもしろい。