部屋と沈黙

本と生活の記録

その名を呼ぶ者 / メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』

浅い眠りの痕跡がまぶたに張りついている。朝。翻訳家の柴田先生*1が『フランケンシュタイン』の人称代名詞についてツイートされているのを見て、そういえばうちにもあった気がすると引っ張り出し、遅くまで読み耽っていたのだ。

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私が持っているのは山本政喜訳の角川文庫版。10年くらい前に買った古本で、おそらくカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだことがきっかけだったと思う。勘のいい人には間接的なネタバレになっちゃいそうだけど、私は「人間が創り出した知性」みたいなものにすごく興味がある。今だったらもっぱらAI。NHKで放映された『超AI入門特別編』もおもしろかった。ディープラーニングにせよ、ニューラルネットワークにせよ、AIの行き着く先はいつも、“私”あるいは“私たち”という、アイデンティティの在処についての問いだ。知性を考えるとき、“私”を差し引くことはできない。私は“私”に囚われ、“私”から逃げ出したいと思いながら、もっと“私”を知りたいと思っている。

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WIREDの“Identity”特集号もおもしろかった

この世界は、私にとっては、私に明らかにしてもらうことを望んでいる一つの秘密であった。

私がいわゆる“フランケンシュタイン”に持っていたイメージとしては「首に太いボルトがぶっ刺さった寡黙で心優しき哀れな怪人」なんだけど、10年経ってようやく原作を読み、まず思ったのが「なんかめっちゃ喋るよね!」だった。ちなみにタイトルにもなっている『フランケンシュタイン』とは、その哀れな怪人の創造主であるヴィクトル・フランケンシュタインその人のことである。怪人には名前がない。名前を呼ぶ者もいない。

山本政喜訳では、感情的な「おれ」と理性的な「私」とで人称代名詞を使い分けているようだった。訳文を平明にしてほしいと、いくつかの文章を挙げダメ出しをしているレビューも見かけたけれど、むしろ私はそこが良いなと思いメモしていたから意外だった。

矢つぎばやにつづけて起こる出来事に感情が震盪されたあとで起きてきて、

感情が震盪されたーー、これはちょっと思いつかない。「震盪された」がすべて「震えた」になってしまうと、私としてはあまりおもしろくない。言葉は組み合わせだ。自分では思いつかない表現を集めて、とりあえず横に置いておくと、いつか偶然に変な回路で繋がったりする。もちろん、平明であることは良いことだ。ただ、回路も多いほうがいい。

私にはたよる者もなく、縁つづきの者もなかった。

おれの姿は、似ているがゆえにかえってよけいに不快な、きたないおまえの典型だ。

私は、その愛するすべてのものから切りはなされ、そのためにみじめな思いをしている、落ち着かない妖怪のように、その小島を歩きまわった。

これらはヴィクトルの言葉であり、怪人の言葉でもある。彼らはよく似ている。二人はおそらく憎しみによって分かち難く結びつき、互いが互いであったのだ。そして、“フランケンシュタイン”という創造主の“ファミリーネーム”が、哀れな怪人の名前として人々に認知されるという錯誤こそが、彼らの、連環としての結びつきであると言えるのではないだろうか。


おまけ

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文庫本に挟まっていた古い栞。“ナウな感覚と周到な配慮”。良いね〜!こういうの、すごく好きだ。