部屋と沈黙

本と生活の記録

真のかなしみ

久しぶりにテレビをつける。19時台のNHKニュース。侵攻を伝える映像を見ると、喉が詰まったような感じになる。誰かのスマートフォンで撮影された暴力、その痕跡。ホームビデオのように脈絡なくブレるその映像は、非情な暴力のすぐ近くにスマートフォンを握りしめた“誰か”がいる、ということも意味している。息がしづらい。

今年も震災や復興に関するテレビ番組を録画し、見たい、見なければ、と思いながら、1年前のものすらまともに見ていない。私は私と30年以上の付き合いがあるので、番組を見れば泣いてしまうと容易に想像できる。それが嫌だった。お前の涙など30分後には乾いてしまう、お前の悲しみには根っこがない、お前は本当のところ何も分かっていない、お前は忘れてしまうし、お前には何もない。

私が敬愛する作家尾崎翠に『悲しみを求める心』と題された短い文章がある。

私は死の姿を正視したい。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすがたが包まれているのではあるまいか。
尾崎翠『悲しみを求める心』より

この文章は「静かな心に眼をつむって自身の影を思うとき、私は不思議であった。」という美しい一文から始まるのだが、ともすれば冷めた死生観と言えるのかもしれない。尾崎翠は「真のかなしみ」によって自身の心と他者の心が「真に接触する」という。

それは瞬間のものであったけれど真の涙であった。母の心と私の心とはその時真に接触していた。私の願うのはその心の永続である。
尾崎翠『悲しみを求める心』より

私が求め、私に不足している悲しみがそこにあるような気がした。一方で、そんなものは存在しないのではないかとも思う。

緑子、ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。
川上未映子『乳と卵』より

戦争反対を表明しろ。さもなくば、いじめの傍観者が加害者と同罪であるように、お前も戦争に加担している。

Twitterは二元論に陥りがちだと思いながら、何も言わずにいることを非難する言葉が突き刺さって抜けない。「善」と「悪」、「白」と「黒」、ひとつあるいはもうひとつ。そのどちらか。本当にそうだろうか。世界がそんなに分かりやすいとは思えない。

ロシア国内のプーチン支持率は70%だというが、それは誰が、どうやって集計した数字なのか。国民の回答に「恐怖」が含まれていないと確かに言えるのか。「恐怖」はときに本質を覆い隠す。残りの30%の人々はどうなるのか。戦争に反対であっても、ロシア国民であることを理由に制裁の対象になってしまうのか。

かたや18歳から60歳までのウクライナ人男性は、自国に残って抵抗運動に加わるよう命じられているという*1。「18歳から60歳までのウクライナ人男性」というだけで。「抵抗運動」という言葉からは、長年議論されている自衛隊の問題もちらつく。どこまでが抵抗で、どこからが攻撃なのか。殺されたら殺していいのか。

Twitterに書くこと、書かないこと、ブログに書くこと、書かないこと、身近な人に話すこと、話さないこと、意識と無意識、そのすべてが私を構成している。そのすべてが「あなた」を構成していると私は思う。書かれたこと、言葉にされたこと“だけ”をもって他者を規定し決めつける人の気持ちが分からない。

戦争は個人を奪う。力で蹂躙し、命を奪うよう命じる人間を私は軽蔑する。戦争なんて嫌いだ。しかし、私には答えられない問いが山のようにあった。

しばらく落ち込み、しかたがない、私は間違っているのかもしれない、でも私は私のやりかたで戦争に近づき、考えるしかない、と思う。これまでに私が接した戦争の記憶、表現を頼りに図書館へ行き本を借りた。そんなことでは遠回りだと笑われるかもしれない。でも、そうするしか方法がなかった。

*1: