部屋と沈黙

本と生活の記録

「私」という不純物 / 束芋 x ヨルグ・ミュラー舞台作品『もつれる水滴』感想

分からない。

先週末、山口情報芸術センターで『もつれる水滴』を観た。未だかつてないほどに捉えどころのない作品で、寝て、起きて、寝て、起きても分からない。そしてそのまま忘れそうだ。分からないことを覚えておくのは難しい。ならばいっそ「分からない」を書いてみよう。出来事から始めて、言葉を取り出す。「分からない」ことは「何もない」こととは違うはずだ。


2022.5.15 sun.
山口情報芸術センター

終演後、会場に拍手が鳴り響いたとき、なぜここが「終わり」なのかが分からなかった。なんで終わるんだろう?いちばん最初に拍手をした人は、なぜここが「終わり」だと分かるんだろう?舞台上の演者は、まだ立ち上がってもいない。終わらない気がする。「終わり」はない気がする。『もつれる水滴』には「終わり」が似合わない。

それはもしかすると『もつれる水滴』の「語り」が希薄だからかもしれない。「語り」は概ね「終わり」を伴う。「語り」が希薄であれば「終わり」もまた希薄になるだろう。そもそも、語るというよりは「示す」に近い。『もつれる水滴』は何かを示していた。

このブログでも散々書いてきたけれど、私はなにしろ本が好きで、物心がつく以前から物語に親しんできた。物語はおもしろくて、便利で、恐ろしい。たとえば「語呂合わせ」は数字に物語をくっつけて覚えやすくしたものだし、物語に絡みとられてしまえば争いが起こる。音楽で戦争は起こらなくても、物語で戦争は起こり得る。物語には美しさと醜さがある。そこに惹かれる。人間のようだと思う。

つまり、私には「物語」というシステムが強力に作用している。あらゆるものに物語を見出そうとしてしまう。『もつれる水滴』の冒頭、ヨルグ・ミュラーによる大きな布とワイヤーを使ったジャグリングを観て、あの布は人間の感情や精神みたいなものだ、と思った。人間の内から出て、繋がっていながら、すべてはコントロールできないもの。布と身体は相関関係にありながら、生み出される動きは非対称であること。感情や精神が、すこしの反動で大きく翻る。私たちはいつも、それらに包まれたり、縛られたりする。

しかし、そのあとが続かない。「あの布は人間の感情や精神みたいなものだ」。この気付きをワイヤーにして『もつれる水滴』を掴んでいたつもりが、いつのまにか途切れてしまった。どんどん分からなくなっていく。己の見出した物語が枷となって、舞台上の出来事から遠ざかっていく。

結局のところ、私は、私が付与した物語への期待に囚われていたのだ。『もつれる水滴』に「私の物語」への回答を求めていた。それはある種の高慢である。私は、あの布にこそアニメーションを投影してほしかった。人間の感情や精神に投げかけられるもの。感情や精神が“それ”にさらされたとき、一体どんな反応が起こるだろう?ワイヤーで繋がった身体は“それ”をどう受け止めるだろう?

私が“私”である以上、作品に対して透明ではいられないと思い知ったのである。

バックステージツアーで束芋さんが「コロナでなければ、布を動かした装置を触ってほしかった」とおっしゃっていたのが残念でならない。触ってみたかったし、舞台に上がったらこっそり確認したいことがあった。

むろん質疑応答で聞けばよかったのだが、まるでメディア取材のように理路整然とした質問をされる方がいて完全に萎縮してしまい「布が翻ったとき、舞台の上で風が起こったような気がして、あの、、扇風機があるんですか?」とかいう馬鹿っぽい質問はできなかった……。

扇風機、あったのかしら。なかったら嬉しい。そんなものがなくても、身体ひとつで風が起こせるのだとしたら、とても素敵だと思う。なぜなら、私にとって、あの大きな布は私たちの感情や精神そのものであり、私たちはそれを使って世界に干渉し得るということの証左だからだ。


おまけ
私みたいなアートの素人がアートについて書く、ということに迷いがないわけではない。私は何も知らない。体系的な美術教育を受けたわけでもなければ、アーティストらの来歴や美術界での評価も知らない。でも、何も分からない素人こそ書くべきだとも思う。なぜなら「分かる」に溺れると見落とすものがあるから。こと「分からない」にかけては素人に分がある。それを発揮すれば良い。今の世の中は「分かる」ことがもてはやされがちだけれど、「分からない」は世界への手がかりになる。

あと、これもらったよ〜!

千客万来、疫病退散シール!ほんとに、このままコロナに罹らんですんだらいいなぁ。そんで、もっとYCAMに舞台作品とか音楽ライブとかがかかってほしい!