部屋と沈黙

本と生活の記録

そのかなしみの根をとおして / リチャード・ブローティガン『ハンバーガー殺人事件』

要するにブローティガンは“So the Wind Won't Blow It All Away”を『ハンバーガー殺人事件』と訳されるタイプの作家だったのだ。そういうタイプの作家だと“思われていた”。憂鬱や喪失を、たとえば西瓜糖の言葉で表すような人なのだ、と。

ハンバーガー殺人事件』を読み始めて、すぐに新潮文庫版『芝生の復讐』の表紙を思い出した。ソファやテーブル、フロアランプが並んだ水辺の写真。

私が初めて読んだブローティガンの作品は、2008年に新潮文庫から発行された『芝生の復讐』だった。単行本の発売は1976年だから、ほとんど復刊のようなかたちである。

不思議な写真だ。心の内側の柔らかい部分が、いきなり天日干しされたような。ちぐはぐな夢のなかを裸足で歩く。無防備で不安定なのに、その足を川の水にさらせば気持ちが良い。

ハンバーガー殺人事件』の“ぼく”も水辺に座り、似たような風景を眺めている。

一九四七年の夏、夕暮れ七時ごろ、池のほとりで家具をトラックから降ろし始めるのだ。
まず長椅子を降ろす。大きくて重い長椅子だが軽々と降ろしてしまう。二人とも長椅子に負けない体格なのだ。おばさんもおじさんと変わらない。長椅子を池のすぐそば、草の上に置いてそこから釣りをするのだ。
リチャード・ブローティガンハンバーガー殺人事件』より


絶版のため、図書館で借りたもの
古書市場にもほとんど出回っていない

ブローティガンは大抵、誰にでも分かる言葉でよく分かんないことを話す。詩とユーモアで煙に巻く。でもときどき、誰も気づいていない、しかし誰もが知っている本当に美しいものを、放り投げてよこすのだ。

ハンバーガー殺人事件」というタイトルそのものは意訳中の意訳なのだが、個人的には、非常に“ブローティガン的”だと思う。それに、ある意味では、それほど見当はずれなタイトルでもない。「ハンバーガー」と「殺人事件」のあいだにある大きな隔たりを結びつけているのは、ほかでもない“ぼく”自身だからだ。

しかし、物語そのものは“ブローティガン的”なものから隔てられている。なんだか、他の作品よりも“露わ”なのだ。ブローティガンに根差す本質的なかなしみが、避けがたく露わになっている。無防備に晒されたそれこそが、リチャード・ブローティガンその人なのだと思わせる。彼の詩も、ユーモアも、すべてそのかなしみの根をとおして言葉になる。

いちばん“ブローティガン的”なものから遠く、かついちばんリチャード・ブローティガンに近い物語が、この『ハンバーガー殺人事件』なのかもしれない。

ぼくにとってそれは目の前に繰り広げられるおとぎ話のようなものなのだから。
リチャード・ブローティガンハンバーガー殺人事件』より

本書がアメリカで出版された2年後の秋、リチャード・ブローティガンは拳銃自殺を遂げる。

ブローティガンの小説のほとんどを翻訳した藤本和子は、本書の翻訳をブローティガンから頼まれた際、自分の文章を書くのに忙しく、返事を濁していたという。結局、藤本和子が本書を訳すことはなかったけれど、2002年に刊行された『リチャード・ブローティガン』のなかで「わたしがもっとも愛している」作品として『アメリカの鱒釣り』、『芝生の復讐』とともに『ハンバーガー殺人事件』を挙げている。

また、藤本和子はその本のなかで、原題である“So the Wind Won't Blow It All Away”をこう訳している。

風がそれを吹きとばしてしまわないうちに
藤本和子リチャード・ブローティガン』より