部屋と沈黙

本と生活の記録

市川春子『宝石の国』12巻までを読んでの感想

普段は、完結前の漫画の感想は書かないようにしているんだけど*1、今回は書く。

市川春子宝石の国』12巻、約2年4ヶ月ぶりの新刊である。写真は特装版。ちなみに私は単行本派で、アニメは観ていない。

Twitterに投稿したとおり、個人的には非常におもしろく読んでいる。

おもしろい作品を読むと、他の人の感想も読みたくなるから、TwitterAmazonのレビューなんかを手当たり次第に読む。で、いわゆる“巨大掲示板”ものぞいてみたら、雰囲気がまったく違って、あまりの落差にまじでびっくりした。よく、Twitterは建前云々、なんて言われるけれど、こんなにも違うものなのか。

だから今回は、私が何をどうおもしろいと感じているか、きちんと書いておこうと思う。

以下、ネタバレあり。

結局は“痛み”の付け替えだ。月人らは、自らの痛みを主人公のフォスへ付け替えることによって「無に至る」という望みを果たした。ようするに彼らは、自分自身の痛みすら自分では取り除けない、不完全な“大衆”である。彼ら自身は痛みから解放されたのだろう。しかし、彼らの“世界の”痛みは消えていない。

こういうことはよくある。誰かが割を食うことで成り立つ世界。“世界”が大げさならば、“仕事”と言い換えてもいい。誰にでも心当たりがあると思う。肉と骨と魂の世界は、私たちの世界とよく似ている。私たちは永遠に終わらないババ抜きを続けている。この円環から抜け出すには?

12巻98話で、ようやくこの問いが立てられた。そして、祈りという仕事を終えたフォスの自我を描く素地が、ついに整ったのである。

私は、市川春子がこの問いにどう答えるか、楽しみでしかたがない。なぜなら、この問いに答えられる人間など、ほとんどいないからだ。すでに答えがあるような問いならば、この世界は今よりももっとましになっているはず。戦争だって起こらないかもしれない。多くの人が答えを求め、考え続けている。あるときは宗教、あるときは政治というかたちを取って、答えを示そうとしてきた。

祈りという仕事をフォスが選んだのか、それとも選ばされたのか、という部分だけでも、相当おもしろい物語になるだろう。選んでいたと思っていたものが、すべて選ばされていたものだったとしたら。そう気づいたとき、私は“私”を失わずにすむだろうか。これは、今まさに取り沙汰されている宗教2世の問題にも通じる。

掲示板では、エクメアとカンゴーム(ウェレガト)の関係性に萎えてしまった人が多い印象だ。たしかに読み返してみると、エクメアがなぜあれほどカンゴームに入れ込んだのかは分からない。説明不足というか、取ってつけた感がある。まあ、理由がないのが恋だし、大衆にはありがちなことで、個人的にはエクメアとカンゴームにさほど興味がないから、彼らの好きにしてもらっていい。瑣末なことだ。

月へ渡った宝石やアドミラビリス族が、皆月人になったのも気味が悪い。現実問題として戦争が起こっているから想像しやすいと思うんだけど、あなたは、侵略してきた国の人間になれる?身勝手な望みのために他者から奪い、傷つけ、蹂躙するような国の人間になれる?そんな簡単に自分の出自を捨てられる?

私には無理。できない。皆が同一になっていく世界はグロテスクだ。私は私のまま、私とは異なる人たちと一緒にいたい。

私は、月人や月人になることを望んだ彼らには何の期待もしていない。彼らは大衆にすぎず、フォスの助けがないと自らを救うことすらままならない。金剛も特装版の“The Party At The End”で、かつての人間についてこう語っていた。

多くの人間は賢かったが、大衆になると変容し制御できない影の大波となる。組織は、群衆にとっては喫緊、素朴で本能による反射的な望みの類、即ち、目前の課題にのみ力を費やし、長期的な幸福に有効な視点計画を持つことが能わなかった。短期的な正義の勝利によって新たな不幸の腫瘍創出が観測される。

なるほど、確かに月人と人間は似ている。それを理解している金剛が大衆側に収まるのも皮肉である。

私が期待しているのはフォスとアドミラビリス族だけだ。地球に残っているアドミラビリス族が絶対にいるはず。たとえば蟻の群れのなかに働かない蟻が必ずいるように、生物に備わった性質として、種を保存するため、別の行動を取る個体が必ずいる。

フォスがどうやって自分自身を救い、この円環から抜け出すか、月人に下等生物と見なされたアドミラビリス族が、しぶとくしたたかに生を繋いでいるか。私はそれが見たい。

それに、アドミラビリス族の一員である貝やくらげのような水生生物は、アユム博士の言う「無機体」と同じくらい何を考えているか分からないし、「無機体」と同じくらい美しいのではないか。

*1:終わるまでは何が起こるか分からないから