部屋と沈黙

本と生活の記録

新型コロナウイルスと“我々の物語”

新しい口紅を買った。

Twitterで、マスクの着用が個人の判断となり「新しい口紅を買うのが楽しみ」と言う友人に、コロナウイルスは消えて無くならない、なのにマスクを外していいと思えるのはどうしてかと尋ね、友人を納得させたというエピソードを読んだその日に、私は新しい口紅を買った。

死んでしまった人たちがいるのに、今も苦しんでいる人たちがいるのに、これから苦しむかもしれないのに、私たちは笑ってもいいのか。何かを楽しむこと、健康であること、生きていることにさえ、うっすらとした罪悪感を抱かせる。マスクを外せば息がしやすくなるはずなのに、息苦しいのはどうしてだろう。思いやりは、私が誰かに渡したり、私が誰かから不意に受け取ったりするもので、誰かに何かをさせようとするときの盾にするものだとは思っていなかった。

コロナ禍のなかでもっとも腹立たしかったのは「物語性のような(接種)キャンペーン」だ。

単に「ワクチンしましょう」ということではなく、もう少しみんなが興味を持てるような物語性のようなキャンペーンをしていただければありがたいなと。
2022.11.10 新型コロナウイルス対策分科会会長 尾身茂氏の発言より引用

やれ「思いやりワクチン」だの「物語性」だの「未来の自分が“後悔”をしないために」だの、なぜ、曖昧な部分を感情や物語で埋めようとするのか。“我々の物語”に“共感”しない者を炙り出せば、いつかは、仲間はずれやいじめ、宗教戦争が起こる。物語は、あらゆる美しいもの、醜いものを含む。ましてや、物語性に頼った怪しい民間療法に懸念を示すべき立場の人間が「物語性」?それが専門家としての科学的な態度と言えるのか。

ワクチンを5回接種して何事もなく元気に遊びまわっている私の両親や、4回目にオミクロン株用のワクチンを接種して寝込み、その後罹患して4、5日寝込んだものの、後遺症が残らなかったのはワクチンのおかげだと言う30代の女性も、3回接種して罹患し、肺炎になって2ヶ月以上咳が止まらない40代の男性も、副反応がきつく2回目以降は打っていないものの、罹患したときは軽症ですんだ私の妹も、個人的な理由でワクチンを接種せず、今のところ罹患していない(と思われる)私みたいな者もいる。

あまりにも「人による」。程度の差こそあれ、皆が平均的な感染対策をしたにも関わらず、発生にこれだけのバリエーションがある。

このたび、WHOが「多くの人がワクチン接種や感染で免疫を獲得したこと」を理由にワクチン接種の推奨範囲を変更した。

とはいえ、このコロナウイルスは、再感染の可能性が高く、ウイルスの変異によって既存の獲得免疫は使いものにならなくなるし、必ずしも弱毒化するとは限らないのではなかったのか。それでもなお、接種の推奨範囲を狭めることができるのであれば、それはもう「若者とか健康な人には要らんかもね」ってことなんじゃないの?

声明の文脈を要約したと思われるタイトルの「必要なし」に過剰反応し「有効性がないわけじゃない!」と躍起になっているアカウントを見かけたけれど、これは有効性の有無の話ではなく、有効性の程度の話だよね。本当に打つべきワクチンに比べて、その有効性を諦めることができるのであれば、それは程度が低い、必ずしも要しないってことじゃないの?

何かがずれている。論理的に破綻している。このコロナ禍は、本当にこんなのばっかりだった。なのに、明確な説明はない。疑いを持つことは“我々の物語”の外に出る行為として忌避された。外に出れば、穢れてしまう。

コロナウイルスは無くならない。一生、無くならないだろう。“我々の物語”だけではなく、それぞれが“私の物語”に生きているのだとしたら、あなたは何を選ぶんだろう。