部屋と沈黙

本と生活の記録

コインランドリー

リネンのシャツも、薄手のコットンシャツも、今は乾いてくれない。閉じた本の頁までもが水気を帯びる。いろいろなものが、いつもより少しだけ重い。

入れっぱなしのドライなモードが寒くて仕方ない。加えて、ここ最近お腹の調子も思わしくなく、私のお腹を真摯によしよししてくれる人がいたらな……と、めそめそしている。こんな気分を立て直すには、実際的なことをするしかない。アイロンはもうかけ終わってしまった。

コインランドリー。コインランドリーの大きな乾燥機なら、きっと“実際的”に軽くしてくれる。

いつもより少しだけ重い洗濯物のカゴを後部座席に積み込み、予約していた車の点検のため、まずはディーラーへ向かった。

待っているあいだにトレンドを仕入れようと、ラックに並んだ女性誌をめくっていたら、よくある着回しページがイラストで驚く。「手持ちの洋服を当てはめて想像しやすいようにイラストで」、みたいなことが書いてあったけれど、これも感染症対策の余波で、撮影ができなかったんだろう。

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恋愛がらみのちょっとしたストーリーが好きで、たまに見かけるとじっくり読んでしまう。着回しよりもお話のほうが気になる。進○ゼミの入会案内マンガみたいな、といえば伝わるだろうか。○研ゼミに入会すれば、すべてがうまくいく。

いわゆる「あるある」というよりは「ないない」なストーリー展開なのだが、「ないない」と思っているのは私だけで、東京で働く女の子にとっては「あるある」なのかもしれない。今回は、シュン(営業部)をめぐる、クールなアオイとキュートなナナの三角関係だった。どちらがシュンを射止めたかはまあいいとして、「私、上手に笑えてるかな……」みたいな結末が悲しい。彼女にもう少しだけ着回せる洋服があったのなら、例えばダンディな上司が慰めてくれる結末(と恋の予感)があったのかな。

ともあれ、よく見れば他の特集ページも過去に撮影された写真のつぎはぎが多い。前述の着回しイラストページといい、トレンドの参考というよりかは、このコロナ禍のただなかに編集されたファッション誌の、いわば歴史的な資料としての価値があるんじゃないか。おもしろ……がっちゃいけないのかもしれないけれど。

帰り道、コインランドリーへ寄る。100円で6分間、ちゃんと軽くなって、少し大丈夫になる。

MORE (モア) 2020年8月号 [雑誌]

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  • 発売日: 2020/06/27
  • メディア: Kindle

諦めるのを諦める

もしかすると私は、恋に落ちたことがないのかもしれない。大抵は「落ちる」というより、地下へ続く階段を下りていくみたいに、人を好きになった。

何かにつけ、距離とバランスを保とうとしてしまう私は、ひとりの人やひとつの何かを、ただひたむきに信じてしまうことを恐れていた。人やものが発する気分に引っ張られやすいたちで、自衛のための潜在的ソーシャルディスタンス、みたいな。行きつ戻りつ、たまに三段飛ばしで転がり落ちもするけれど、とにかく、いつでも引き返せるようにしていた。自分を見失うのが怖かった。

それでも、過去に一度だけ、気がついたら地下3階くらいにいたことがある。恐怖は好奇心の裏返し。暗く、自分の輪郭が曖昧になるくらいの深いところで、盲信してしまいそうな予感は実感になっていた。

そして唐突に、ひとり取り残されたのだ。

口にしようのない苦しみ、力を奪う絶望、悪魔的に激しい憤怒、頭につねに浮かび徐々にーーあたかも誰かの死を悼むかのようなーー一種の喪へと変わっていく悲しみの雲。
『闇の中の男』ポール・オースター/柴田元幸

喪失にかたちがあるなら、きっとこんなだろう。長いあいだ、私は自分の感情とうまく折り合いをつけられないでいた。

そんなとき、甥っ子が生まれた。とりたてて「子ども好き」というわけでもなかったのに、初めて甥っ子を見た瞬間、ぶん殴られるみたいに理解した。足りないものは何ひとつない。今がもう既に完全無欠の最高点で、完璧な存在だ。子どもって、未来そのものだ。

甥っ子や姪っ子のことを思い出すとき、自分を“見失って”いるかどうかは分かんなくても、自分を“失って”はいないと分かる。盲信に似た状況なのに、むしろ腹の底から元気が出てきて、自分の輪郭が押し広げられていく。なんだってできる気がする。その場所は明るくて、地下にいる感じはしない。

もしかしたら、片想いが究極の愛なのかもしれない。たとえ、甥っ子や姪っ子から何とも思われていなかったとしても、私の方はずっと好きだもん。失われる気がしない。失わせる気もない。

年初に、半分悪ふざけで「失恋するための恋がないから、恋をして、失恋する」っていう目標を立てたんだけど、片想いが究極の愛だとすると、失恋はしなくてよくなる。そもそも、ずっと好きでいるなんて、きっと想像以上に難しい。

私が触りたいものは、そう簡単に触れるものじゃない。しかるべき手続きを踏めば、必ず手に入るようなものじゃない。誰かにとっては朝飯前でも、私にとっては晩飯どきで、もうお腹がぺこぺこなのに、ありつけるかどうかは分からない。そういうものだ。

私はわがままだから、欲しくなってしまう。知りたくなってしまう。「理想が高すぎる」なんていう呪いの言葉があるけれど、いったい誰のために、自分が欲しいものを低く見積もったり、諦めたりしなくちゃいけないんだろう。私はもう、諦めるのを諦める。欲しいものは欲しい。

私は今でもひとりでいることが好きだし、ひとりでいることを必要としているけれど、それすら超えてしまうくらいの恋をして、いつか愛に触ってみたい。それを言葉にしてみたい。優しくならないと書けない文章があるみたいに、意地悪にならないと書けない文章がある。私はその両方を書いてみたい。美しいものも、美しくないものも、全部。

触れるかもしれないし、触れないかもしれない。ずっと片想いかもしれない。だとしても、触りたいと言い続ける。一度でも本当を手に入れたなら、失われることはないから。


おまけ
そういえば、思いっきりベタなことをやって自分自身を茶化そうと失恋ソングを漁っていたときに、ドリカムの『あの夏の花火』を聴いちゃって、思わず真剣に泣いたよね。あなたがいてもいなくても、今年の花火は、あの日と変わらず綺麗っていうのが余計に悲しくて、綺麗で、すごくいいと思ったな。あとは、安室ちゃんの『Baby Don't Cry』とか。泣くなって言われても泣いちゃうよ。

“私”を翻訳する私

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コーヒーとドーナツの朝食を済ませ、顔を洗い歯を磨いたあとは、パジャマにしている擦れたTシャツの上からスウェットをかぶり、ソファに寝転んで“MONKEY”を読んだ。

面白そうな作品の近くには大概、柴田元幸岸本佐知子がいる。訳者、解説、帯の文句、海外文学ビンゴゲームのアタリみたいな人たちだ。今回は岸本佐知子が「魂の双子」帯を、柴田元幸が解説を寄せ、マーク・トウェインヘミングウェイフラナリー・オコナーから続く「すぐれた声」の持ち主として、トム・ジョーンズを評している。


「作品の近くに柴田元幸岸本佐知子がいるなら間違いない」と、海外文学を読むときの“しるし”として信頼していた“柴田元幸”が、このあいだの、古川日出男『おおきな森』刊行記念対談以降、“柴田元幸先生”になった。

対談中、柴田先生は「うーん、違うなぁ……」とつぶやきながら言葉に詰まり、何度も言い直していた。その様子を見て、私はほとんど直感的に「この人の言葉は信頼できる」と思ったのだ。柴田先生は絶えず、作家や自分自身のなかに存在する“voice”に耳をすませ、その「声」に添う言葉を探している。そのことがよく分かった。この人の言葉は信頼できる。この人の翻訳は信頼できる。だから、「尊敬しているので、つい先生をつけてしまいます」。

“MONKEY”21号の特集「猿もうたえば」を、とてもおもしろく読んだ。

ブレイディみかこの“Everyday is like Sunday,isn’t it?”では、「何かが変わっていくさなかにあるんだ」と感極まり、思わず泣いてしまう。ただ、何がそんなに感極まったのか、自分でもうまく説明できない。そういうことがままある……なんて書くと、情緒不安定な奴だと思われそうなので、普段は素知らぬふりをしている。「全米が泣いた」とか「号泣しました!」とかいう安易な宣伝文句が大嫌いなくせに、一人でいればわりと安易に泣いてしまうので、自分でもどうかしてると思う。

ジーシー・ワイリーの「最後の優しいことばブルース」を取り上げたグリール・マーカスの『消える、忘れる』も、素晴らしく示唆に富んでいる。私は本当に何も知らないよね。ジーシー・ワイリーもグリール・マーカスも知らなかった。それなのに、私が知りたいと思っている「何か」を指し示してくれる文章がいくつもある。一文だけ引用する。

ーー両方の言葉を同時に歌っているのだ。

私は、自分自身の思考や感情を書き留めることも、あるいはただ日記をつける行為でさえも「翻訳」といえるんじゃないかと思っている。私は“私”を言葉に置き換える。話す、書く、歌うことで、私は“私”と重なり合う。“私”を翻訳するのは私だ。そんな気がする。

読み進めながらスマートフォンのメモアプリに打ち込んだ文章を、感想の代わりに置いておく。


短い言葉の集まりに、たとえば詩が含まれるとき、私たちは同じ部屋にいる
私たちみんな違う姿かたちをして、同じ部屋にいる
部屋の扉は開け放たれて、私はそこに居てもいい
そのままそこを通り抜けて、私は出て行ったっていい



14時、京都大学オンライン公開講義「自己とは何か:“われわれとしての自己”とアフターコロナ」のライブ配信を観る。“私”のいちばん近くにいるはずの“私”が、実はいちばん“私”を知らない。自己から始まる哲学が、いちばんとっつきやすくて、いちばん難しい。それが、すごくおもしろい。次の講義が楽しみ。“むかしのおっさん”と“いまのおっさん”が言うことをよく聴いて、“私”のことを考えてみたい。