部屋と沈黙

本と生活の記録

ナチュラルに不自然

フルカワユタカの『オンガクミンゾク』、第6回のトークゲストはACIDMAN大木伸夫……は置いといて、言おうか言わまいかずっと迷っていたことがある。言ったことで誤解を生み、誰かを傷つけてしまうのは本意ではない。この気持ちをうまく説明できる気もしない。

とはいえ、このブログはインターネット上の僻地だし、何より私自身が言いたいので、言う前にとりあえず謝っておこう。大変申し訳ないことではあるが、フルカワユタカの真顔がおもしろくってしょうがない。とくにVTR明け、配信が再開されるのをじっと待っているときの表情が良い。……なんでなん、なんでそんなにも真顔なん。あの無の表情で毎回笑っちゃう。

フルカワユタカがコラムを連載している“BARKS”にも、たまに中途半端な表情のスナップ写真が掲載されていて、それもおもしろいなぁと思っていた。

うーん……“中途半端な表情”そのものが好きなのかしら。たとえばさ、変顔ブームってあったじゃん。でも、個人的には何がおもしろいんだかよく分かんなかったのね。で、今は加工でしょ。“変”だったり“可愛い”だったりを、“意識して”作ってる。

自分の顔って普段は見えないじゃない。鏡に映す表情も、ある程度は意識して作るでしょ。そういう“作ってる顔”じゃないから好きなのかなぁ。あの表情には、意図的な感じがしない。

本人も意図しないまま表に出てきた、無防備で手垢にまみれていない表情を見られるのは、他者に与えられた特権だよね。それに、なんかちぐはぐなのよ。馴染んでない感じ、そわそわしてる感じ?それで毎回笑っちゃう。

念のために言うと、かっこ悪いんじゃなくて、おもしろいってことだからね。全然かっこ悪くない。「界隈ではいちばんかっこいい」らしいから、おそらくそうなんだろうけど、如何せんおもしろいが先に立ってしまう。

今後もナチュラルに不自然でいてほしいよ。馴染まず、迎合せず、作る曲がかっこいいって、すごく良いと思う。

で、改めて大木伸夫だけど、何を話してたんだかあんまり覚えていない。フルカワユタカが恐ろしく嫌われてたってことと、お断りされてたことくらい?だからせめて、ライブパートのセットリストを書こうと思う。当ブログでは初の試み。

1.眠りたくない夜は
2.BOY
3.夏の鉄塔
4.I don’t wanna dance
5.Beast
6.too young to die
7.サバク

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どーだ、参考になったでしょう!ここにきてようやく役に立つことを書けた気がするよ。誰かの役に立てるって嬉しいね。でも、合ってるかどうかは分かんない。

“BOY”と“夏の鉄塔”は新曲。私は今回の配信で初めて聴いた。

“BOY”はメロディも良いけど、ベースも良いね。ベースが良い曲って好きだ。

“夏の鉄塔”は、歌詞が気になる。鉄塔の向こう側へ駆け出す“君”を見て、どうして“僕”は引き返すんだろう?立ち尽くすでも、見送るでもなく、立ち去るんだよね。“君”が向かう場所は良さそうなところなのに。実は異界への入り口、的なことなんかな。夏は盆があるから……。

今回はバンドセットだった“too young to die”は、アコースティックバージョンのブルージーな感じがすごく好きで、いつか生で聴いてみたいなぁと思っている。

アコースティックバージョンの“too young to die”は、『裏・傑作選』に収録されています

いずれにせよ、ライブがかっこよければかっこいいほど、少しかなしくなってしまう。あー、観に行けないんだなって。そういう、ちょっとしたことですぐバランスが崩れそうになるから、たまには中途半端な表情のスナップ写真をアップしてほしいし、あの無の表情で笑かしてほしい。

形容したい

渡邊忍がかっこいい。かっこよすぎる。アコースティックライブはもうむちゃくちゃ良かったし、そもそも、ああいうふうに顔全体で笑う人が好きだ。有り体に言えば、ものすごく好きなタイプの顔が、ものすごくかっこいい音楽をやっていて、口を開けばおもしろい、っていう。すごくない?かっこよさが渋滞している。

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フルカワユタカの『オンガクミンゾク』、第5回のゲストはASPARAGUSのボーカル&ギター、渡邊忍。このASPARAGUSも、the band apartDOPING PANDAと同様、ディズニーのトリビュート・アルバム“DIVE INTO DISNEY”に参加していたバンドだ。

なんかさ、しみじみ「良いの引いたよね」と思う。よくもまあ聴こうと思ったよ。18か19のころにレンタルショップの店頭で見かけて、参加しているバンドはただのひとつも聴いたことがなかったのに、ともあれディズニーなら退屈はしないだろうっていう、それだけの理由だった。

それが今や、バンアパはその頃からのファンだし、フルカワユタカも聴くようになって、渡邊忍はかっこいいし、退屈どころではない。何かのついでくらいに選んだものが、今に続く根っこのひとつになっている。

ライブ中に聞き取れた英単語からASPARAGUSの“I’m off now”を見つけ、アコースティックのコンピレーション・アルバムに“IN DESERT”で参加したというページにも辿り着いた。Amazon musicでは“KAPPA Ⅱ”が公開されている。“BY MY SIDE”とか“ENDING”とかも好きだなぁ。もっと聴きたい。ライブにも行ってみたい。

ちなみに、渡邊忍のハードな女性ファンのことを“くノ一”と呼ぶらしい。ハードになればなるほど“くノニ”、“くノ三”と数字が増え、“くノ十”になると、ハードすぎて敵になるそうだ。ハードな男性ファンは“忍たま金太郎”。これも増える。“忍たま金二郎”、“忍たま金三郎”……。なお、ASPARAGUSのハードなファンは“パラァ”。“PARAR”、だろうか。

なんだかもう“くノ一”くらいにはなっていそうな気がして戸惑っている。

もともとオタク気質じゃないのよ。いろんなことをいっぱい知りたいほうだから、ひとつのことを深く知ろうとするオタク気質に憧れがある。17、8年聴き続けているバンアパですら“万年にわか”のライトファンなのに、何が私をそうさせたのか。

形容したい。私には「自分の好きなタイプに自分がなる」という野望がある。だからこそ、その好きを形容したい。形容すれば、好きが見える。目印にできる。自分自身と一緒にいるだけで、自分の好きなタイプと毎日一緒にいられるなんて、ものすごくコスパがいいでしょ。

渡邊忍を真似てパーカーのひもを蝶結びにしてみる。てらいがない、嫌味がない、テキトーと適当が同居している。「良いこと言いたいな〜」と思案したあとで「夢、叶う。きっと、叶う。……よし」と笑う。テキトーなこと言うなぁと笑っちゃうんだけど、不思議と、本当に叶いそうな気持ちにさせる人だ。

それはきっと、その言葉が本当の言葉だからだと思う。渡邊忍は本当の言葉で話す人だ。小学生レベルの下ネタも、ヨード卵という高級な卵のことも、おそらくすべて本気で言っている。テキトーにも適当にも本気だから本当になる。

私もそうでありたい。テキトーにも適当にも本気でありたい。本当の言葉で話したい。本当の言葉で書いて、私なりの本当の言葉を見つけたい。

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あと、顔。こういうふうに笑う人、ほんとに好き。曲もかっこいいし……まじで渋滞してる。

髭 “LiVE STRM HiGE – ZOZQ – ” 感想

iPadに取り込んだ9/10のライブ映像を観ながら(正確に言うと“聴きながら”)、12/3のライブを思い出している。配信ライブの良いところは、開始直前まで洗濯物をたたんでいてもいいし、好きなお酒をゆっくり飲んでもいいし、メモを取ってもいいところだ。

興味がないことはもちろん、興味があることも順に忘れていく。セットリストは覚えられない。聴くばかりでステージを観ていない、なんてこともままある。もったいない!と思って観ても、しばらくすると聴いてしまい、やっぱり観ていない。

もはや下手くそなんだと思う。観て聴いて覚えとく、を同時にするのがすごく苦手。その点、配信ライブであれば、聴いたあとにアーカイブで“観て”、鉛筆とメモ用紙で“覚えとく”ことができる。セットリストはきっと親切な人がまとめてくれるだろうと思ったから、私はただ「忘れないでほしいな」「いろんな場面で会おう」「会おうよ」とだけ書いた。

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2020.12.3 thu.
FEVER

前回の無観客配信ライブとは違い、会場にはお客さんの姿も見える。このコロナ禍以降、私自身はライブハウスへ行く機会もなく、感染拡大予防ガイドラインに沿って観客を入れたライブを配信で観るのも初めてだった。

正直なところ、こんなにも異様な雰囲気なのか、と思った。“見えない何かに見られている”。それはもう空気、としか言いようがない。不思議な感覚だ。今までにない。今まではもっと“与える者”と“与えられる者”がはっきり分かれていたように思う。演者と観客。ステージの上とステージの下。

それが今や、幸か不幸か“見えない何か”の存在によって双方が結びつき、同じ気持ちを持ち寄っている。“与える者”は“与えられる者”、“与えられる者”は“与える者”。反転し、行き来する。往来がある。この世界はソーシャルなディスタンスのただなかにあるのに、距離が近づいたものもあるのか。

ファンになってから日が浅く、聴いたことがある曲もあれば、聴いたことがない曲もあった。2010年に発表されたという「サンシャイン」も、今回の配信ライブで初めて聴いた。須藤寿が「なにも感じないのさ」「なにも感じたくない」と歌い「僕は言葉を脱ぎ捨てて/君を感じたい」と歌ったとき、不意に指をさされたような気がした。その矛盾した感情を、私もよく知っている。

わりと多くの人々が感受性を礼讃し、欲し、備わっていることを示そうとするけれど、本当にそこまでありがたいものなんだろうか。感受性は、他人の感情を横領する。自分自身の感情はもちろん、他人の感情にさえ手を伸ばし、引き寄せ、食い散らかして、いい気になったり、苦しくなったりする。感受性には、そういう浅ましい側面もあるんじゃないか。

感情のつまみ食い。吐いてなお食べたという古代ローマの貴族のようだ。卑しい。行き過ぎた感受性は卑しい。

私は、他人の感情に影響を受けやすいたちで、そういう自分を浅ましく思う。自分自身の感受性を大切にしたいと思いながらも、その感受性が煩わしくてしょうがない。もし何も感じなければ、自分自身の浅ましさからも目を背けていられるのに。

実際、この文章も、これまでの文章も、個人的な印象のなすりつけでしかない。Twitterに共有するとき、ハッシュタグをつけるかどうかで毎回悩むよ。私の指紋でべたべたに汚れた、私の好きなものたち。髭にも、髭のファンにも申し訳なく思う。でも、私にはこれしかない。何も感じないではいられない。この浅ましさも私だった。

須藤寿が「忘れないでほしいな」と言ったとき、なんとなく、すべてのことに当てはまるような気がした。「覚えていること」と「忘れないでいること」は似ているけれど、私が大切にしたいのはきっと「忘れないでいること」なんだろう。

感受性の美しさも、その浅ましさも忘れないでいる。矛盾を抱えたまま会いにいく。それは、いろいろな場面の、別の自分自身かもしれない。



9/10に配信されたライブのダイジェスト版。かっこいい。