部屋と沈黙

本と生活の記録

2020年上半期を振り返る

上半期は、とにかく自問自答を繰り返した日々だった。

2020年は、あらためて「移動」の年にしたい。とりあえず行く。観る、聴く、書く。どうせなら、タピオカミルクティーを飲む人生、飛行機に乗る人生にしたい。

年始に立てた今年の目標。物理的な移動を制限された上半期だったけれど、いろんなことを考えて、書いて、絶えず自分自身の内側をうろついていた。

当然ながら、飛行機には乗っていない。来年4月の東京行き(予定)も、新幹線で行こうかな……などと考えている。そもそも、初めて飛行機に乗るなら経験者と乗りたいよ。勝手が分からんし、正直に言うと怖すぎる。頼むから手を握っていてほしい。そのあとアルコール消毒したって構わないから。

「どんな人がタイプか」という話題を友人がリストにしてくれたんだけど、そのメモを眺めているだけで幸せな気持ちになる。……もういっそのこと、それを“誰か”に求めるんじゃなくて、自分自身がそういう人になれば幸せなんじゃないのか?

自分史上最高の思いつきだと思う。「自分の好きなタイプ」に自分がなってしまえば、自分の好きなタイプ(自分)と毎日一緒にいられるんだよ!すごすぎる!

好きなタイプをたずねられたときには「好きになった人がタイプ」って答えろと教わったけれど、そんなんじゃ何も言っていないのと同じだ。自分が何を好きで、何を良しとするかって結構大事だと思うから、下半期は「自分の好きなタイプ」について真剣に検討する。

来週からは、交代制のリモートワークが始まる。

このたびのリモートワークの折に、iPhone付属のイヤホンにはマイクが内蔵されていることを教えてもらった。「この棒みたいなとこがマイクなん?この棒が!?音量調節のとこかと……マイクの絵が!描いてあるし!!このちっさい棒が……すごい、技術!って感じ、まじで未来」みたいなことを、嬉しさにまかせて言った。

Twitterを始めてみたものの、なかなか馴染めないと思っていたけれど、原因はこれか。やることが多すぎる。考えることが多すぎる。

物語が好きな私にとって、Twitterの“編集されなさ”が苦手だった。膨大で好き勝手な情報の羅列。今でもTwitterには馴染めていないけれど、もしかしたら、この“編集されなさ”こそが自然な状態なのかもしれない。

プロローグからエピローグ、美しい起承転結の先、本を閉じて目をあげれば、編集されないまま続く私の「今」が見える。

Amazonプライム・ビデオのラインナップを眺めながら、あ、仕事辞めたいな、と思う。

未だに1本も観てないし、仕事も辞めてない。自分で自分に呆れるよ……。もちろん、仕事してんのは偉い。

よし、このお休みのうちに、1本は観る(あと1日しかない)!『劇場』にしようかな。

好きになればなるほど、「嫌われたくない」という自意識が邪魔をして、ほんの少しだけ会いたくなくなる。

そもそも出会わなければ、好意も信頼も生まれない。

「好意と信頼の先に結婚があればいい」と婚活の誘いを断る私に、友人が言い放った言葉だ。……ほんと、「ほんの少しだけ会いたくない」とか、眠たいこと言ってる場合じゃないね。

知らないことは、ないのと同じ。出会わなければ、いないのと同じ。でもどこかにあるし、どこかにいる。

これから少しずつでも、「知りたい」に「行きたい」や「会いたい」を上乗せしていけたら良いと思う。この上半期で好きになった人やものがたくさんあるから、行けるときには行って、会えるときには会おう。それで、もしも今後、婚活に誘われるようなことがあったら、そのときは覚悟を決めて行ってくる。骨は拾ってくれ。

いちばん大切なのは、言葉じゃなくて、言葉を引っ張っていくものなんだ。

個人的に上半期一驚いて、最も腑に落ちたことだ。言葉が好きすぎて長いこと気付かずにいた。私に驚きを与えてくれる全てのものが、私に言葉をくれる。言葉は遅くて、脆くて、強い。このことに気付けたのも、フルカワユタカにびっくりさせられたおかげだ。

これからも、いろいろな人やものが、私にいろいろなことを教えてくれるだろう。良いことも悪いことも、美しいことも醜いことも。そうやって、私は私を新しく知る。


今週のお題「2020年上半期」

小さいけれど響く声

連休前に少しでも雑務を片付けておこうと残業申請をしたせいで、スティーヴン・ミルハウザー『ホーム・ラン』刊行記念イベントのYouTube配信を思い出したときにはもう、開始時刻を15分も過ぎていた。

2時間前にざっと降った雨の名残りのなか、急いで自宅へ戻る。URLをタップし、途中参加の心許なさに自分自身を馴染ませていたところで、ちょうど「短篇小説の野心」の朗読が始まった。

「一粒の砂に宇宙をみる」というフレーズに引っ張られて、チャールズ&レイ・イームズの“POWERS OF TEN”を思い出す。極小を突き詰めていくと、いつのまにか翻って極大と同一化する感覚。ループしている、輪になっている。極小も極大も、最終的には「すべて」になって、拡散していく。

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初版は1983年。私の手元にあるのは2003年の11刷で、19か20の冬、駅前の大型書店で購入したことを覚えている。理工学の棚は人もまばらで、とても静かだった。今のところ書籍は品切中のようだけれど、YouTubeには9分の映像が残されている。

私自身も、どちらかといえば小さいものに美しさを観る。“Less is More”、ドイツ出身の建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉だ。

ただ、大きいものだけが持つ圧倒的な存在感にも魅了されてしまう。風力発電の風車の群れ、高架鉄道を支えるコンクリートのかたまりと、それらに遮られた朝の光。ただひたすら「でかい」のってそれだけで驚きだし、圧倒されて意味が分かんなくなる瞬間が好き。

いずれにせよ、目の前に二つの道があったとき、私が選ぶのは小さい道だ。片手で持てるくらいがいい。小さい道も大きい道も、辿り着きたい先は同じ。ならば、私はこちらから行く。

切り替え可能な小さいチャンネルでありたい。小さいけれど響く声で、今を書きたい。自分のために。


おまけ
柴田先生がおっしゃっていた、なかなか書き上がらないケリー・リンクの長篇小説が気になる。どんな“novel”になるんだろう。

“MONKEY”2号に掲載されたケリー・リンクの短篇「モンスター」は、会話やシーンの組み立て方が本当にかっこよくて、映画的ですらあった。もちろん、いちばんの魅力は、無垢で軽薄、かつ残忍なモンスターのキャラクターだ。子どものように笑う、醒めた狂気。

ホーム・ラン

ホーム・ラン

プリティ・モンスターズ

プリティ・モンスターズ

いてほしい

また、扉が閉まる。気配がする。

悲しいニュースが目白押しの世界で正気を保つには、感覚を麻痺させるか、遮断するか、そのどちらかしか知らない。感覚を麻痺させるくらいなら、遮断してしまおう。そもそも、麻痺させる術を知らない。

今年の3月末頃から、ほとんどテレビをつけない生活を続けている。リアルタイムで観たのは金曜ロードショーの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズくらいで、普段は録画したものを後から観ている。むろん、そのまま観ずに消してしまうことも多いのだが。

もともと、テレビがなんの目的もなくつけっぱなしになっていると気が散ってしまう。それでも以前は、朝の情報番組にチャンネルを合わせて、支度をしながらなんとなしに聞いていた。それが、日を追うごとに伝える声のトーンが陰り、深刻になって、誰かが死に、それも大勢が死に、なのに私はいつものように元気で、少しずつ大丈夫じゃなくなっていった。

だから消すことにした。Twitterは見ないようにした。私の言葉では到底足りないから書かないようにした。書けなかった、というのが正しいかもしれない。平日の午後3時、職場のデスクでお菓子を食べながらインターネットでニュースをさらい、主要な話題はおしゃべりでまかなった。あとはゲームをするか、音楽を聴いていた。そうやって、少しずつ大丈夫になっていった。

知ることが呪いになるのなら、知らないでいることは、ときに私を守るのかもしれない。なのに、私は知りたくなってしまう。どうということもない毎日の端で生き、名前すら小さくて見えないただの私が、足りない言葉で今を書く。たぶん、何もないよりかはマシなはずだ。少なくとも、私自身のためにはなる。

とはいえ、扉を開ければ、予期せぬ悪意や、予期せぬ訃報に晒されて、バランスが取れなくなる。

一部の悪質な感染者のせいで「感染者=悪」の図式が強化されてしまう。本来、感染者は悪くないはずなのに、私はそう信じているのに、彼らはその思いをなんの躊躇いもなく踏みにじっていく。

「なぜ」という問いに、答えは与えられない。死は動かない。そのままそこで重しとなり、かつて何もできなかった(あるいは、何も“しなかった”のかもしれない)自分を思い出してしまう。私は本当に、自分が守りたいと思う大切な人や何かを、守りたいと思ったときに、きちんと守りきることができるだろうか。

私自身、人やものが発する気分に引っ張られやすいたちだから、こういう感情的な文章は表に出さないようにしてきた。シェアしたくない気持ち、とでも言えばいいのか。自分が苦しいのはもちろん嫌だし、自分以外の人が苦しいのも嫌だった。でも、その「自分以外の人が苦しいのも嫌」というのは、優しさなんかじゃなく、もしかしたら、それに引っ張られて“自分が”苦しくなるのが嫌なだけなのかもしれない……。

私はもう、自分が大して良い人間ではないことに気づいている。だから、もういい。良い部分もそうでない部分も引き受けて、見ないふりをするのはやめる。取り繕ったって仕方がない。100年もたたないうちに、私はもう、ここにはいないんだから。

私はこのとおり、本当に面倒くさい。考えすぎ、自分でも重いって思う。こんな重いもの、他の誰にも持たせたくない。私の面倒くささと過剰な自意識は、私が抱きしめて生きる。

私はずっと、私から出て行ってしまいたいと思っていた。それが叶わないなら、せめて今とは違うかたちになりたいと思い続けてきた。価値観をぶち壊してくれる誰か、あるいは何かを待ちながら、本当はずっと、受け止めてもらえる距離を測っていた。その上で今もなお、壊してほしいと思い続けている。

人は皆どこかおかしいし、おかしいところがひとつもないのも、それはそれでやっぱりおかしいし、それでいい。いるだけでいい。いるだけで意味がある。だからいてくれ、頼むから。

暴かれる正体、8割以上がHENTAI。笑っちゃうのに、なんでこんなにかっこいいんだ。かっこよすぎて胸が苦しい。

そもそも、こんなブログを読んでくれているそこのお前だって、どっかしら変わってるんだからな!ありがとう、ほんとに。受け止めてくれてるって、勝手に思っちゃうからな!ちなみに「お前」は「御前」が語源だ!

ただ笑って、いつもみたいにしているだけでも、誰かの支えになっていると思っていい。いてほしい。悲しいニュースが目白押しのこの世界で、傷ついても笑おうとする知らないあなたにいてほしいよ。