部屋と沈黙

本と生活の記録

いてほしい

また、扉が閉まる。気配がする。

悲しいニュースが目白押しの世界で正気を保つには、感覚を麻痺させるか、遮断するか、そのどちらかしか知らない。感覚を麻痺させるくらいなら、遮断してしまおう。そもそも、麻痺させる術を知らない。

今年の3月末頃から、ほとんどテレビをつけない生活を続けている。リアルタイムで観たのは金曜ロードショーの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズくらいで、普段は録画したものを後から観ている。むろん、そのまま観ずに消してしまうことも多いのだが。

もともと、テレビがなんの目的もなくつけっぱなしになっていると気が散ってしまう。それでも以前は、朝の情報番組にチャンネルを合わせて、支度をしながらなんとなしに聞いていた。それが、日を追うごとに伝える声のトーンが陰り、深刻になって、誰かが死に、それも大勢が死に、なのに私はいつものように元気で、少しずつ大丈夫じゃなくなっていった。

だから消すことにした。Twitterは見ないようにした。私の言葉では到底足りないから書かないようにした。書けなかった、というのが正しいかもしれない。平日の午後3時、職場のデスクでお菓子を食べながらインターネットでニュースをさらい、主要な話題はおしゃべりでまかなった。あとはゲームをするか、音楽を聴いていた。そうやって、少しずつ大丈夫になっていった。

知ることが呪いになるのなら、知らないでいることは、ときに私を守るのかもしれない。なのに、私は知りたくなってしまう。どうということもない毎日の端で生き、名前すら小さくて見えないただの私が、足りない言葉で今を書く。たぶん、何もないよりかはマシなはずだ。少なくとも、私自身のためにはなる。

とはいえ、扉を開ければ、予期せぬ悪意や、予期せぬ訃報に晒されて、バランスが取れなくなる。

一部の悪質な感染者のせいで「感染者=悪」の図式が強化されてしまう。本来、感染者は悪くないはずなのに、私はそう信じているのに、彼らはその思いをなんの躊躇いもなく踏みにじっていく。

「なぜ」という問いに、答えは与えられない。死は動かない。そのままそこで重しとなり、かつて何もできなかった(あるいは、何も“しなかった”のかもしれない)自分を思い出してしまう。私は本当に、自分が守りたいと思う大切な人や何かを、守りたいと思ったときに、きちんと守りきることができるだろうか。

私自身、人やものが発する気分に引っ張られやすいたちだから、こういう感情的な文章は表に出さないようにしてきた。シェアしたくない気持ち、とでも言えばいいのか。自分が苦しいのはもちろん嫌だし、自分以外の人が苦しいのも嫌だった。でも、その「自分以外の人が苦しいのも嫌」というのは、優しさなんかじゃなく、もしかしたら、それに引っ張られて“自分が”苦しくなるのが嫌なだけなのかもしれない……。

私はもう、自分が大して良い人間ではないことに気づいている。だから、もういい。良い部分もそうでない部分も引き受けて、見ないふりをするのはやめる。取り繕ったって仕方がない。100年もたたないうちに、私はもう、ここにはいないんだから。

私はこのとおり、本当に面倒くさい。考えすぎ、自分でも重いって思う。こんな重いもの、他の誰にも持たせたくない。私の面倒くささと過剰な自意識は、私が抱きしめて生きる。

私はずっと、私から出て行ってしまいたいと思っていた。それが叶わないなら、せめて今とは違うかたちになりたいと思い続けてきた。価値観をぶち壊してくれる誰か、あるいは何かを待ちながら、本当はずっと、受け止めてもらえる距離を測っていた。その上で今もなお、壊してほしいと思い続けている。

人は皆どこかおかしいし、おかしいところがひとつもないのも、それはそれでやっぱりおかしいし、それでいい。いるだけでいい。いるだけで意味がある。だからいてくれ、頼むから。

暴かれる正体、8割以上がHENTAI。笑っちゃうのに、なんでこんなにかっこいいんだ。かっこよすぎて胸が苦しい。

そもそも、こんなブログを読んでくれているそこのお前だって、どっかしら変わってるんだからな!ありがとう、ほんとに。受け止めてくれてるって、勝手に思っちゃうからな!ちなみに「お前」は「御前」が語源だ!

ただ笑って、いつもみたいにしているだけでも、誰かの支えになっていると思っていい。いてほしい。悲しいニュースが目白押しのこの世界で、傷ついても笑おうとする知らないあなたにいてほしいよ。