部屋と沈黙

本と生活の記録

一度愛したら、

最近の100円ショップには可愛いものがたくさんあるから、お買い物が楽しい。このあいだは、ダイソーにほわころくらぶの文房具が置いてあると知り、探しに行ってきた。

マスキングテープの棚、ペンの棚、ラッピンググッズの棚を回って、マスキングテープ2つと、ボールペンを買うことにした。

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むくちゃんが『ウインクの仕方』を読んでる。はあー、可愛いな〜!ボールペンはチープなつくりだったけど、問題なく使えるし、可愛い。

久しぶりのダイソーで、せっかくだから店内をうろうろしていたら、ミッフィーのキッチングッズもたくさん入荷していた。

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あー!

他にも、紙皿とか紙コップとか、爪楊枝まであったよ。私は、ラッピングに使えそうな紙ものを中心に購入。可愛い。可愛すぎて動悸がする。ちょっと買いすぎたかな。でも、ひとつ100円だし……。お会計のあと、エコバッグのなかが可愛いであふれて、すごく嬉しかった。

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こっちはセリアのミッフィーグッズで、消しゴムと鉛筆削り。ただ、鉛筆削りとしてのクオリティは低めかも。普段使っているコクヨの鉛筆削りとくらべると、若干の粗削り感あり。

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ついでにハンドクリームもミッフィーなん……って、これさ。もしかして、これが“推し”ってこと?こういう感じが“推し”なの?もしかすると私は、“推し”のことを難しく考えすぎているのかもしれない。

池辺葵の『ブランチライン』で、仁衣ちゃんが「一度愛したら死ぬまでだ」って言うのね。そういう考え方が私にもあって、その面倒臭さを自覚しているから、必要以上に踏み込まないように、踏み込ませないように、人との距離を保ってきたふしがある。だって重いでしょ、命の話になっちゃうんだぜ。

一度愛したら、死ぬまで。それが私にとっての“推し”だから、それは甥っ子と姪っ子で、次点が妹と弟だった*1

ほわころちゃんとかミッフィーは、こう言うと身も蓋もないけど、キャラクターだから。もし私が命の話を持ち出したとしても、気にしないでしょ。顔色ひとつ変えん。

てことはよ、ある種の偶像化をすれば、わりと簡単に推せるってこと?

うーん、いや、無理だな、アイドルであれなんであれ、一人の人間だし。対象が人である限り、私と等倍の命だから。……そうか、等倍だからだ。ようやく分かった、等倍だと推せない。おそらく私の“推し”は2種類あって、自分よりやや小さいか、異常に大きいかのどちらかだ。前者は“守りたい、その笑顔”系の推しで、私の甥っ子と姪っ子らはこれにあたる。後者だと神。信仰という名の推し。

所詮私も人の子だから、自分でも気がつかないうちに差別的な心を育んでしまっているかもしれないけれど、それを差し引いても、私にとって他者は等しく同じ、概ね等倍で、老若男女、生まれて死んで、皆が致死率100%であることに違いはない。

そもそも並んで歩きたい。同じ目線で、教えて、教えてもらって、守って、守られて、推して、推されて、そういうのが良い。推すだけじゃ足んなくない?好きになったら踏み込みたいし、踏み込んでほしくない?おしゃべりしたくない?なのに、神は沈黙する。

祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうとしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き……。
遠藤周作『沈黙』より

だから、あらゆるものに対して“万年にわか”なのかなぁ。アイドルとかアーティストとか、どれだけ好きになったとしても、おしゃべりはできないじゃん。おしゃべりできない神(≒推し)と、おしゃべりできる人の子がいたとして、私はきっと後者を選んでしまう。私の近くにいる、私と同じ、人の子を大切にしてしまう。死ぬまで。

あー、推しへの道のりは険しい。年始にさ、取り急ぎSexy Zoneを推すって言ったのに、もう頓挫しそうじゃん!

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

*1:両親を“推す”感じはしない

ナチュラルに不自然

フルカワユタカの『オンガクミンゾク』、第6回のトークゲストはACIDMAN大木伸夫……は置いといて、言おうか言わまいかずっと迷っていたことがある。言ったことで誤解を生み、誰かを傷つけてしまうのは本意ではない。この気持ちをうまく説明できる気もしない。

とはいえ、このブログはインターネット上の僻地だし、何より私自身が言いたいので、言う前にとりあえず謝っておこう。大変申し訳ないことではあるが、フルカワユタカの真顔がおもしろくってしょうがない。とくにVTR明け、配信が再開されるのをじっと待っているときの表情が良い。……なんでなん、なんでそんなにも真顔なん。あの無の表情で毎回笑っちゃう。

フルカワユタカがコラムを連載している“BARKS”にも、たまに中途半端な表情のスナップ写真が掲載されていて、それもおもしろいなぁと思っていた。

うーん……“中途半端な表情”そのものが好きなのかしら。たとえばさ、変顔ブームってあったじゃん。でも、個人的には何がおもしろいんだかよく分かんなかったのね。で、今は加工でしょ。“変”だったり“可愛い”だったりを、“意識して”作ってる。

自分の顔って普段は見えないじゃない。鏡に映す表情も、ある程度は意識して作るでしょ。そういう“作ってる顔”じゃないから好きなのかなぁ。あの表情には、意図的な感じがしない。

本人も意図しないまま表に出てきた、無防備で手垢にまみれていない表情を見られるのは、他者に与えられた特権だよね。それに、なんかちぐはぐなのよ。馴染んでない感じ、そわそわしてる感じ?それで毎回笑っちゃう。

念のために言うと、かっこ悪いんじゃなくて、おもしろいってことだからね。全然かっこ悪くない。「界隈ではいちばんかっこいい」らしいから、おそらくそうなんだろうけど、如何せんおもしろいが先に立ってしまう。

今後もナチュラルに不自然でいてほしいよ。馴染まず、迎合せず、作る曲がかっこいいって、すごく良いと思う。

で、改めて大木伸夫だけど、何を話してたんだかあんまり覚えていない。フルカワユタカが恐ろしく嫌われてたってことと、お断りされてたことくらい?だからせめて、ライブパートのセットリストを書こうと思う。当ブログでは初の試み。

1.眠りたくない夜は
2.BOY
3.夏の鉄塔
4.I don’t wanna dance
5.Beast
6.too young to die
7.サバク

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どーだ、参考になったでしょう!ここにきてようやく役に立つことを書けた気がするよ。誰かの役に立てるって嬉しいね。でも、合ってるかどうかは分かんない。

“BOY”と“夏の鉄塔”は新曲。私は今回の配信で初めて聴いた。

“BOY”はメロディも良いけど、ベースも良いね。ベースが良い曲って好きだ。

“夏の鉄塔”は、歌詞が気になる。鉄塔の向こう側へ駆け出す“君”を見て、どうして“僕”は引き返すんだろう?立ち尽くすでも、見送るでもなく、立ち去るんだよね。“君”が向かう場所は良さそうなところなのに。実は異界への入り口、的なことなんかな。夏は盆があるから……。

今回はバンドセットだった“too young to die”は、アコースティックバージョンのブルージーな感じがすごく好きで、いつか生で聴いてみたいなぁと思っている。

アコースティックバージョンの“too young to die”は、『裏・傑作選』に収録されています

いずれにせよ、ライブがかっこよければかっこいいほど、少しかなしくなってしまう。あー、観に行けないんだなって。そういう、ちょっとしたことですぐバランスが崩れそうになるから、たまには中途半端な表情のスナップ写真をアップしてほしいし、あの無の表情で笑かしてほしい。

“話してあげよう”

物語が必要だった。

それなりにボリュームのあるファンタジーで、過去に一度読んだことがある物語でなくてはならなかった。“今ここ”から遠く離れた別の場所が必要だった。私は疲れきっていて、結末を知るすべもないのは“今ここ”だけで十分だった。

去年の春に緊急事態宣言が発令されたとき、私は小さくて可愛い電子の箱庭を眺めていた。今年の冬は、壁に閉ざされた町を眺めている。

「疲れを心の中に入れちゃだめよ」と彼女は言った。「いつもお母さんが言っていたわ。疲れは体を支配するかもしれないけれど、心は自分のものにしておきなさいってね」
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』より

「そのとおりだ」と“僕”は言い、そのとおりだと私も思う。

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み返している。奥付の重版情報から推察して、18歳のころに大学生協で買ったものだろう。文庫本の上巻には、黒の紙に銀のインクで印刷された町の地図が折り込まれている。カットは司修。現在出回っている新装版とは違うようだ。

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初読のときには気にならなかった比喩の多さが気になる。やや唐突で散漫だ。でも、言いたくなる気持ちも分かる。比喩は枝分かれしたもうひとつの世界だから。世界の別の側面を、私も見てみたい。その見え方の数だけ、世界があるのだとしたら。

上巻の20章「世界の終り ーー獣たちの死ーー」を読み終えたところで、リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』に思いを巡らす。私は『西瓜糖の日々』を読み返すことも考えて、ひとまずはやめにしたのだった。アイデス“iDEATH”も美しく閉ざされてはいたが、純粋な暴力と血の匂いがする。

いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎていくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。
リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』より

『西瓜糖の日々』には、その物語に含まれていながら、言葉では語られていないことが山のようにある。人がひとりいれば、その者が何ひとつ語らなくても、その内に人生が含まれているのと同じだ。“In Watermelon Sugar”、語られたことも、語られなかったことも、すべては西瓜糖の世界で、西瓜糖でできた煙に巻かれていく。そういう物語だ。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『西瓜糖の日々』は似ている。村上春樹はきっと、言葉としては語られなかった“西瓜糖の日々”を、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で語ったんだろうと思う。そんな気がする。