部屋と沈黙

本と生活の記録

“話してあげよう”

物語が必要だった。

それなりにボリュームのあるファンタジーで、過去に一度読んだことがある物語でなくてはならなかった。“今ここ”から遠く離れた別の場所が必要だった。私は疲れきっていて、結末を知るすべもないのは“今ここ”だけで十分だった。

去年の春に緊急事態宣言が発令されたとき、私は小さくて可愛い電子の箱庭を眺めていた。今年の冬は、壁に閉ざされた町を眺めている。

「疲れを心の中に入れちゃだめよ」と彼女は言った。「いつもお母さんが言っていたわ。疲れは体を支配するかもしれないけれど、心は自分のものにしておきなさいってね」
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』より

「そのとおりだ」と“僕”は言い、そのとおりだと私も思う。

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み返している。奥付の重版情報から推察して、18歳のころに大学生協で買ったものだろう。文庫本の上巻には、黒の紙に銀のインクで印刷された町の地図が折り込まれている。カットは司修。現在出回っている新装版とは違うようだ。

f:id:roomandsilence:20210126213848j:plain:w400

初読のときには気にならなかった比喩の多さが気になる。やや唐突で散漫だ。でも、言いたくなる気持ちも分かる。比喩は枝分かれしたもうひとつの世界だから。世界の別の側面を、私も見てみたい。その見え方の数だけ、世界があるのだとしたら。

上巻の20章「世界の終り ーー獣たちの死ーー」を読み終えたところで、リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』に思いを巡らす。私は『西瓜糖の日々』を読み返すことも考えて、ひとまずはやめにしたのだった。アイデス“iDEATH”も美しく閉ざされてはいたが、純粋な暴力と血の匂いがする。

いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎていくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。
リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』より

『西瓜糖の日々』には、その物語に含まれていながら、言葉では語られていないことが山のようにある。人がひとりいれば、その者が何ひとつ語らなくても、その内に人生が含まれているのと同じだ。“In Watermelon Sugar”、語られたことも、語られなかったことも、すべては西瓜糖の世界で、西瓜糖でできた煙に巻かれていく。そういう物語だ。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『西瓜糖の日々』は似ている。村上春樹はきっと、言葉としては語られなかった“西瓜糖の日々”を、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で語ったんだろうと思う。そんな気がする。