部屋と沈黙

本と生活の記録

考察と妄言

村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』が4/13に発売される。自分では「それほど熱心な読者ではない」とか言いながら、やっぱり「おぉ〜!」と思う。長編だとなおさら。

読書を趣味にしている人はたぶん、多かれ少なかれ村上春樹に対するなんらかの感情、言葉を持っていると思う。そういう小説家ってなかなかいない。ほかに思いつく?人気がありすぎて、なぜか揶揄までされるんだぜ?

もっとすごいのは「普段は本を読まない人も読む」ことだ。一発だけじゃなく、新作の長編小説が発表されるたび話題になる。好き嫌いはさておき、物語そのものに強度がなければ起こり得ないよね。

モチーフが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』っぽいのも良い。村上春樹の長編小説のなかでも好きな作品だから、楽しみだな〜。

もちろん、読んだ人の感想も作品と同じくらい楽しみ。普段、海外文学周辺をちまちま読んでいる身としては、感想の母数が多いだけでうれしいよ。数が多ければ多いほど多様で珠玉混合なのも、おもしろいに決まってる。

とはいえ“似非考察”は好きじゃないな。なんでもかんでも「考察」しては「答え」を示す。推理小説ならまだしも、そんな、クイズじゃあるまいし……。

優れた物語には「問い」がある。ただし「答え」があるとは限らない。

このシーンの意図はこう、ここの言動はこう、などと、今ある学問なり定石に当てはめて固定化することにおもしろみを感じない。学問は道具である。使い、その先へ進むためのものだ。定義するだけでは“考察”とは言えない。

“似非考察”とは、言うなれば壁に飾られた道具の自慢である。「その道具を使って何を表現するか」がいちばんおもしろいのに、彼らはその手前でやめてしまう。妄言派の私としては、非常にもったいないと思うのよね。その知識を道具に、読み手を斬りつけてくれよ!打ちのめしてくれよ!それが本物の“考察”じゃねぇのかよ!まったくよ〜、たのむぜ……。

ちなみに妄言派とは、テキトーな思いつきによって妄想を深めていくタイプのことです。