部屋と沈黙

本と生活の記録

郊外のものたち / リチャード・ブローティガン『ソンブレロ落下す ある日本小説』

ほとんど気がふれてんのかな、と思う。天才的で痛々しい。皮膚を破って流れる血の気配がする。死の匂い。リチャード・ブローティガンの小説は概ねそんな感じ。そういう痛々しい物語は苦手なはずなのに、ブローティガンは私にとって特別な作家の一人だ。血の気配と死の匂いのなかに、センス・オブ・ワンダーとしか言いようのない詩が混じる。読むだけで打ちのめされ、傷つき、見えない血が滲むほどの美しい詩。

それは黒猫で、猫がもし彼女の髪の郊外であったとしてもおかしくはなかった。

彼女の黒髪と、その郊外である黒猫。考えたこともなかった。感性の目が覚めたような。いつだって目が覚めて初めて、眠っていたことに気づく。

たとえば私の黒髪と、私の郊外である黒猫がいたなら。あるいは私自身が、何か別のものの郊外であったとしたら。私はその新しい感覚にさわってみる。それは長い眠りのそばに、ずっとあったのだ。

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ソンブレロ落下す』が何を言わんとしているのか、正直なところよく分からない。アメリカ人ユーモア作家は悲嘆に暮れ、破り捨てられた屑籠のなかの小説は蜂起し、作家の元恋人である日本人女性は眠り続ける。なお、ソンブレロはメキシコの伝統的な帽子。

あるいは“郊外の物語”と言ってもいいのかもしれない。“あるもの”から離れた“あるもの”たち、郊外のものたちの物語だ。アメリカ人ユーモア作家が見つけた一筋の黒髪は彼女の郊外、屑籠のなかの小説は物語の郊外、眠り続ける彼女が見た夢もまた彼女の記憶の郊外なのだ。そして彼女の髪も、彼女の郊外となって眠る。彼女のかたわらで、長く黒くーー。朝になって丹念に梳られることを夢見ながら。

ーー私から離れていった私はどこまでが私なのだろう?

私がリチャード・ブローティガンを好きだと言うとき、それは翻訳者である藤本和子が好きだと言うことと等しい。たとえば「まぐろサンドウィッチ的絶望」に「どうでもいいや式の態度」。

「殺せ!殺せ!殺せ!」と群衆は歌うかのごとくいった。人々はご機嫌ななめであったのだ。

ご機嫌ななめ。並べられた言葉のちぐはぐさに思わず笑ってしまう。詩とユーモア。もしかすると私は、リチャード・ブローティガンというより藤本和子が好きなのかもしれない。それくらい、藤本和子の日本語の感覚に惹かれている。

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もし「#私を構成する9枚」ならぬ「#私を構成する9冊」を選ぶなら、藤本和子の『リチャード・ブローティガン』を必ず入れるだろう。評伝ともエッセイとも違う、ひとりの風変わりな男と表現をめぐる素晴らしい物語だ。


おまけ
#私を構成する云々っていうの、おもしろそうだな〜と思いながら一度もやったことがない。選べるのかも分かんないし*1、選んだとしても不動じゃないというか……。それに、良いものから影響を受けるのはもちろんだけど、良くないものからも影響を受けるんだよね。これは良くない、すごく嫌だ、みたいなものは九つのなかに入らなくても、私を確かに構成している。

……まぁ、あれこれ言ってないでやってみろ!だよねぇ。私を構成する9冊。入れ変わることがあれば、それはそれでおもしろいし。あと8冊か〜。

*1:選ぶことは何かを選ばないことと同じだ。