部屋と沈黙

本と生活の記録

身のうちに他者を湛えて / スタニスワフ・レム『ソラリス』

きっかけは「ハヤカワ文庫の100冊」フェアだった。スタニスワフ・レム生誕100周年記念の限定カバーが平積みされ、ホログラム仕様が光を反射していた。“思考する海”。アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』や、Amazonのほしいものリストなかに、レムの『完全な真空』を入れていたことをぼんやり思い出した。

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乱暴に類型化するなら「異星人とのコンタクトもの」と言えるだろう。ただし、その異星人とは“絶望的に話が通じない”。“コンタクトもの”であるにもかかわらず、である。これが『ソラリス』の提示する問いであり、ほかの“コンタクトもの”とは一線を画すところではないだろうか。

スタニスワフ・レムの『ソラリス』は、思考する海とのコンタクトに伴う、詳細な観察レポートであり、ソラリス学史であり、海からの使者との接触がもたらす心理描写であり、科学と宗教の類似性を指摘する論考でありーー。

物語のなかの海は、最後まで圧倒的な他者として描かれる。スマートフォンのメモアプリに抜き書きしたいくつかの文章を読み返しながら、ふと「海と私たちは似ている」と思う。異質であるからこそよく似ている、と。

自分が相手にしているのは、確かに知的な、ひょっとしたら天才的な構築物の断片なのかもしれないが、そこには狂気すれすれの、手のつけられない愚かさの産物が支離滅裂に混ざっている。

でもそれは、自分の中にはひょっとしたら、残酷なもの、素晴らしいもの、殺人的なものなど、様々な考えや、意図や、希望があるのに、自分でもそれについて何も知らないからなのだ。人間は他の世界、他の文明と出会うために出かけて行ったくせに、自分自身のことも完全には知らないのだ。自分の裏道も、袋小路も、井戸も、封鎖された暗い扉も。

前者は海に関する描写を、後者は人間の潜在意識や無意識のプロセスに関する主人公ケルヴィンの内証を引用したものだ。海と私たちはよく似ている。混沌を抱え、孤立している。ケルヴィンが海を理解できないように、海もまたケルヴィンを理解できないだろう。そこにあるのはさみしさのようなものだけだ。海と私たちは、あるいは“あなたと私”は、圧倒的な他者として分け隔てられている。その分断によって、本質的なさみしさを共有している。

もしかすると「海と私たちは似ている」と指摘することこそが、人間形態主義ーー人間の形を基本として世界を把握・解釈しようとする擬人的な世界観ーーに陥っていると言えるのかもしれない。しかし、人間が人間である限り、人間から抜け出すことはできないのではないか。私が私である限り、私からは抜け出すことができないように。それは海もまた同じである。海が海である限り、海からは抜け出すことができない。

「自分自身のことも完全には知らない」ということは、私たちは皆、ソラリスの海のような圧倒的他者を身のうちに湛えている、とも言えるのではないか。私たちは自分自身とすらまともにコンタクトが取れない。その“他者”とコンタクトし、理解したいがために、私は私に問う。私にとって文学とは問いである。身のうちに湛えた海に問いを投げ入れ、引き起こされる思考や感情の波紋を観察している。


おまけ
訳者解説によると、タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』の出来栄えについて、レムとしては不満だったらしい。3週間の議論の後に「あんたは馬鹿だよ」と言って喧嘩別れするくらい。申し訳ないけど笑っちゃうな〜。それはそれで観てみたい。タルコフスキーはどんなふうに解釈し、ソラリスを描いたんだろう。