部屋と沈黙

本と生活の記録

“偏執狂”狂

ピンチョンの解説が収録された新訳版『1984年』のリンクを張り付けながら、本棚のなかで眠っている『競売ナンバー49の叫び』のことを考える。新潮社トマス・ピンチョン全小説のなかの一冊で、奥付は2011年7月30日。当時勤めていた書店のブックカバーがかかったまま、約9年のあいだ読み進められることなく、2度の引越しに耐え、眠り続けている。

この人の眼球がすごかった。明るい黒の瞳のまわりに線がはびこり、網状組織(ネットワーク)をなしている。涙にこもる知性について調べる実験室の迷路といった感じだ。
『競売ナンバー49の叫び』トマス・ピンチョン/佐藤良明訳

……過剰すぎる。過剰すぎて笑っちゃう。眼球だよ、眼球。ひとつの対象物に対してここまで偏執的になれるなんて。ピンチョンに限らず、たとえば眼球ひとつで、ここまで受け取っちゃう人がいるんだよ。すごいよ……。

改めて読み進めてみると、第1章からめちゃめちゃおもしろい。なんだよ……読めよ、過去の私。なんていうか、概ねセンシティブな変人しか出てこない。心の皮膚が薄すぎる夫、狂った精神科医、自分のことをバレーボールだと思っている写真家。可笑しいのに、繊細すぎて詩になっちゃう。とはいえ、当事者にとっては地獄そのものだから、笑ったり、ポエティックなんて言おうもんならぶん殴られる類いの。

もしかしたら、詩は地獄から生まれるのかもしれない。いや、「地獄から生まれた詩」が好きなだけか、私が。スタンダードに美しいものも良いけれど、歪なものにも惹かれてしまう。その「過剰さ」が、こわくて気になって仕方がないんだろう。過剰な美しさ、過剰な歪さ。

だって、均しちゃうもの、私。バランス取ろうとしちゃうもの。仕事はちゃんとするし、慎重だし、たまに、そんな平均点の少し上を取りにいく自分をつまんなく思うよ。偏ってたっていいのに。

ともあれ、9年かけて、ピンチョンを愉しむ素地が(なんとか)できたってことか。『LAヴァイス』の登場人物と物の多さには混乱したけど、今回は帯に登場人物が書いてあるから大丈夫、なはず。そういえば、登場人物の多さでは引けをとらないマルケスの『百年の孤独』を読んだときには、家系図の「アウレリャノ(17名)」という表記を見て爆笑したな……。17人もいて一括りにされる、哀れなアウレリャノたち。


この文章に手を入れているあいだに、古川日出男柴田元幸の『おおきな森』刊行記念対談LIVEをYouTubeで見たんだけど、最初の朗読が本当に素晴らしかった。配役を固定せずに朗読するっていうのは柴田元幸の提案らしく、なんていうか、これこそが「物語」という大きな塊の本質をつく、ひとつの手段なのかもしれない。24時間は無料で公開されるらしいので、明日5/25(月)のお昼までは見られるはず。気になる方はぜひ。私も、もう一度見ておこうかな。