部屋と沈黙

本と生活の記録

物語るシステム

こころは入れ替わりませんよ、なんでかって、こころは地続きだからです、と言った瞬間、あれ、本当にそうか?と考え始める。書くときと違い、喋るときはほとんど反射的に喋るので、言葉が声になって、それが自分の耳に届き、ようやく“おお、そうか……ん、そうか?”となる。

仕事に関する雑談の延長線上で「だって、こころを入れ替えたって言うから」云々の話題に、私が応えた答えがそれだった。こころは入れ替わらない、なぜならこころは地続きだから。

本当にそうだろうか?

じゃあ、こころが入れ替わるときってどんなときか?入れ替わる……記憶喪失、過去の記憶を失う。ということは、こころは記憶でできていると言っていい、うん、しっくりくる。では、記憶はどうか。入れ替え可能か……可能だ。あまりにも簡単に、記憶は入れ替わる。忘れる、途切れる、誤認する。

現れる連想をザッピングしながら、感情的な部分では「こころは入れ替わらない」と断じてしまうことに悲しみを覚えていた。そんなの、自分のダメなところはずっとダメになってしまう。思い、考えながら「でも、うーん……」とだけ言う。

こころは入れ替わらない。こころは記憶でできている。記憶は入れ替わる。では最初に戻ろう。本当に、こころは入れ替わらないと言えるのか。

結論から言うと、個人的にはやっぱり「こころは入れ替わらない」と思う。「私」が「私」から逃げられないのと同じように。ただ、入れ替えられなくても、かたちを変えることはできるかもしれない。ほら、短所は長所の裏返しってよく言うじゃん。その逆も然り。良くも悪くも。見え方が変わる、見せ方を変える。交換ではなく変様。

ここまでくると、じゃあアンパンマンのこころはどうなってんのかという疑問が湧くのだが……顔を食われ(自ら与え)、すげ替えられ、こころを維持している。むかし、友だちんちの子どもとアンパンマンを観ながら、思わず「え、なにこれ、めちゃめちゃいい歌じゃん」と言うと、「そうなんよ、アンパンマンの歌って良い歌が多いんよ。も、し、じしんをなーくして、……」と友だちが応えた。その歌は『アンパンマンたいそう』だった。

その後、こころを入れ替えさせる方法に話題が移り、なぜか(本当になぜか)陰陽師にまつわるエピソードを話し始める上司の「二人とも陰陽師が好きでしょ、一人は活躍して、一人は捕まったけど」という言葉が導線になって「それだ!こころを入れ替えさせる手段があるとしたら“宗教”です、心酔させることができれば、コントロールできます」と半ば興奮気味に口走る。

クリスマスを楽しみ、神社へお参りもする、よくいる日本人の両親に育てられた私は、アニミズム的な、信仰以前の信仰、みたいなものを否応なく植え付けられている。とはいえ、私はそれが嫌じゃない。なんかすごいねぇ、ありがてぇ、ありがてぇ、わっしょい!わっしょい!みたいな、テキトーに雑多でめでたい感じが性に合っている。

だからこそ、何かひとつのこと(あるいは宗教)を信じ抜くと言う意味での「信仰」というこころの状態が不思議で仕方なく、遠藤周作の『沈黙』や、キリスト教関連の教養本なんかを読みあさってみたものの、「信仰」のなかにも迷いはあると分かっただけで、「信仰」というこころそのものについては分からずじまいだった(それを抜きにしても『沈黙』はおもしろい)。

宗教はたぶん、物語に似ている。物語に似ていながら、おそらくシステムでもある。組み込まれてしまえば、人を、何かを、動かしてしまうほどの強力な物語。あー、やっぱりおもしろそうだな。きっとすごく恐ろしくて、おもしろい。