道路を挟んだ向かい側にある図書館前駐車場に車を停め、美術館へは地下道を抜けて行く。壁面には夏祭りの様子が色とりどりのタイルで描かれているのに、ここはとても静かだ。陰り。音のない祭囃子。でも、嫌な感じはしない。
地下道の出口から差し込む緑の光が好きで、来るたびに「いいな」と思う。明け方に雨が降ったような気配がする。
先週末、山口県立美術館で開催中の『小村雪岱スタイル 江戸の粋から東京モダンへ』展へ行ってきた。
大正から昭和初期にかけて、装幀、挿絵、舞台美術などの、いわゆる商業美術の世界で活躍した小村雪岱。開催に寄せたあいさつと写真パネルの先に、小村雪岱による随筆の一節が引用されていた。
芸術における真実とは、いふまでもなく真実らしさである。真実そのままの再現でなくて、真実の姿、真実のなかにかくれたその精神を端的に表現し、確信を描出することにある。
これは、私が求めている“真実”と同じだ。漠然と「そうしたい」と思っていたことが、不意に言葉となって差し出されたことに驚き、何度も何度も、繰り返し読む。たとえば「芸術」を「物語」に置き換えてもいい。大事なのは「真実そのままの再現でなくて」というところだ。私は「そうしたい」。本当も、嘘をも使って、真実(のようなもの)を書いてみたい。
展示作品を眺めながら、あらためて「日本画には雨が降る」と“分かった”ような気がした。考えてみれば、私は“雨降りの西洋画”を思い浮かべることができない。曇天模様や道端の水たまりのような“雨の気配”がする西洋画は観たことがあるけれど……*1。
対して日本画は“雨の気配”なんてもんじゃない。そらもうザーザー降る。しとしと、ぱらぱら、じゃんじゃん。なんとなく、日本画は“線”、西洋画は“面”という感じがする。
ミュージアムショップで買ったポストカード。『雪の朝』、『青柳』、『おせん 雨』。いやー……、ほんとにかっこいいね!日本画の繊細さ、品とセンスに、グラフィックデザイン的な“意図”が加わったような。描画ではなく描出。何かを写しとる、というよりも、その何かをどうにかして伝えようとする、そんな感じ。
独特のパース感にも惹かれる。なんか、ちょっとずれているような*2。でも、その不思議さがすごく良い。ずれで惹き込む、みたいな。たぶん「真実そのままの再現」ではつるんとしすぎて、なんの取っかかりもないんよ。そういえば、資生堂の『花椿』に化粧品のドローイングを連載していたフィリップ・ワイズベッカーも、独特のパース感が魅力だった。つい、資生堂意匠部のデザイナーだったこともある小村雪岱との繋がりを連想してしまう。
展覧会、ミュージアムショップを楽しんだあとは、中庭を眺めながら資生堂パーラーのドリンクを飲む。本展は8/29まで。オンラインチケットであれば、会期中でも前売り価格で購入することができるのでおすすめです。