部屋と沈黙

本と生活の記録

『AKIRA』が今を覆い尽くす日

東京オリンピックが開幕した。いまだに賛否両論、問題山積である。でも、そんなことどうだってよくなるくらい気になってしまうのは、大友克洋が描いた『AKIRA』という物語の存在感だ。

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幻の開会式案として挙がっていたらしい『AKIRA』の赤いバイクが見られなかったことを惜しむ声があがる一方で、オリンピック反対派のデモ行進では、横断幕に「中止だ中止」と書き込まれている。

むろん「AKIRAに登場する赤いバイクを楽しみにしていたこと」だけで「オリンピック賛成派」と見なすのは短絡的だろう。では、“開会式、ちょっと楽しみにしてたのに派”と、“全然楽しみじゃない、中止だ中止派”ならどうだろう。方向性は真逆だ。にもかかわらず、彼らは『AKIRA』という物語を介して繋がっている。

この感じ、すごくおもしろいと思う。フィクションが現実に干渉しているというだけでもわくわくするのに、その物語が、ネガとポジ、双方から求められている。

これが物語における最高の到達点だと思うのは私だけだろうか。だってそれは“世界”を描いたことに他ならない。多数派と少数派、事実と虚構、正論と曲論、宗教、病、暴力ーー。すべてを巻き込む。描く。物語はやがて現実に引用され、賛成派からも反対派からも求められる。思想の違いなど些細なことだ*1。両端から引っ張ったって壊れない。混沌こそが『AKIRA』に内包された強度である。

「〇〇に賛成する」あるいは「〇〇に反対する」。それはただの思想であって、私にとってはシステムのなかのメーターにすぎない。様々な要因でメーターが上下するように、私の思想はうつろう。

世界を良くしたいとTwitterで呼びかける人、デマを流す人、でも本人にとってはデマなどではなく“真実*2”であり、やはり同じように世界を良くしたいと思っていること、指をさす人、たしなめる人、過激派、穏健派、日和見主義ーー、そのすべてをただ見てみたいと思っている。悪魔のような好奇心で、私はあらゆるメーターを読む。そして、そこに立ち現れるシステムを、物語の確信を、理解したいと思っている。

きっとそもそもが不謹慎なのよ、私。たとえば「デマをどうにかしたい」というより「どうやってデマが広がっていくのか」に興味がある。見てみたい。仕組みが知りたい。たぶん、賛成派にも反対派にも嫌われると思う。どこにも属したくない感じがずっとしてる。創造は思想を超えた先にある感じがずっとしてる。

もし、開会式であの赤いバイクが疾走し、オリンピック反対派のデモ行進で「中止だ中止」の横断幕が掲げられたとしたら。きっと、物語が現実を覆い尽くす感じになったろう。果たしてそれは“現実”なのか。私は、物語と現実の境目を見分けることができただろうか。

*1:ただし、自身の思想を伴わず、いわばアクセサリーとして物語を“利用”するのは「思想のコスプレ」にすぎない。

*2:真実と事実は違う。事実はひとつ、真実は複数。念のため。