部屋と沈黙

本と生活の記録

分からない

先週末、「ジブリ美術館のクラファン*1が24時間経たずに1千万円の目標突破 コロナ禍で経営難に」という見出しを見かけて、これほどの有名どころですら経営難なら、地元の美術館はどうなっちゃうんだろうと心配になる。

新型コロナウイルスが猛威を振るい始めて約1年半。私が暮らすいなかのショッピングモールでも、テナントの撤退が相次いでいる。飲食店、アパレル、雑貨屋さん。普段の生活をほんのすこし良いものにしてくれる、美しくて美味しくてちいさいものから順になくなっていく。

連休中は美術館へ行こう。快晴。蒸し暑さに耐えかねて、エアコンの設定温度を1度下げた。

それにしても、これほどまで個人の未熟さや愚かさがあらわになる時代もない。

これから始まるオリンピックもむちゃくちゃだ。こんなにも国民に歓迎されないお祭りって、なんかかなしいね。やるも地獄、やらないも地獄、行き着く先はいずれにせよ地獄だ。運が悪い。詰めも甘い。くだんのいじめ問題など、日常的に音楽を聴く人にとっては、わりと有名な話だったんじゃないか。私も12、3年前に、同僚だった男の子からその話を聞いた。コーネリアスのファンだったけれど、持っていたCDは全部捨てた、と。

間違いを間違いのままにしていた代償だろう。いろいろな意見があるようだが「人は間違いを犯すもの」だから「許そう」という論調は、すこし飛躍しすぎではないかとも思う。もちろん、人は誰しも間違いを犯す。ただ「許す」「許さない」は当事者間の問題であって、第三者が口を挟むことではない。

問題は「平和や平等、あらゆる差別と闘うことを掲げるオリンピックに相応しい人選であるかどうか」だ。「許す」「許さない」でも、音楽的な「良し」「悪し」の問題でもない。「彼が作る音楽を一度も良いと思わなかったのは、ああいう人間性だったから」みたいな発言も見かけたけれど、それって、たとえば私の同僚だった男の子の「好き」という気持ちにも泥を塗る行為じゃないか。「お前の好きだったものは、最初から泥みたいなものだった」ってことでしょ。そんな、誰かの「好き」を貶めるような言い方は好きじゃない。

このたびの辞任は妥当だと思う反面、小林賢太郎の解任についてはちょっとがっかりしている。なんでかって、結構好きだったから。ラーメンズの舞台も、小林賢太郎単独の舞台も観に行ったことがある。ただ、解任の理由になったコントでのセリフは知らなかった。たしかに、あのセリフでは笑えない。平和や平等、あらゆる差別と闘うことを掲げるオリンピックに相応しい発言だとは思えない。

とはいえ、くだんのいじめ問題とはやや毛色が違うんじゃないかと感じてしまうのは、“ファン”というバイアスがかかっているせいだろうか。文脈の如何を問わず、フィクションのなかで描かれる殺人は作家の罪なんだろうか。私の「好き」も、最初から泥だったと言われてしまうんだろうか。

もうよく分からない。かなしいね。

私は無知である。未熟である。政治云々にはあんまり関わりたくない意識低い系である。それでも、できるだけ聡明でありたい。他者に反省を促すのではなく、まずは自省できる人間でありたい。そのためには、己の目を開いて、物事をきちんと見る必要がある。それは曇っていないか。偏っていないか。考えろ、考えろ、考えろ、私。

なんかここ最近こんなんばっか。笑えない。もっとずっとしょうもない文章が書きたいよ。くだらなさすぎて笑っちゃうような。