部屋と沈黙

本と生活の記録

コロナ禍における音楽フェスの中止について私が考えたこと

まともじゃない人のほうが人生楽しそうだよね、とたまに思う。世の中には、まともな人と、まともじゃない人と、まともになりたいのになれない人がいる。ただし、まともじゃない人々は自分のことを「まともじゃない」なんて思っていやしないから、それが世の中にとっての嘘や間違いであったとしても、彼らにとって本当であれば、やはりそれは“本当”なのだ。

自分のなかに“本当”があれば、きっと息もしやすい。結局は、まともな人*1と、まともになりたいのになれない人のいずれかになって、“なれない人”にしかなれない私は、本当のことを見つけられないまま窒息し続けている。

緑子、ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。
川上未映子『乳と卵』より

なんかもうしんどいですね。ここ最近、仕事をするか、寝るか、生活するかの毎日を続けることでざらついたニュースから身を守ろうとするもうまくいかず、さらにざらついている。しんどい。音楽フェス*2が医師会の要請を受けて中止になり、主催者側の声明によって対立構造が生み出され、逮捕者まで出るという、むちゃくちゃな感じがまあしんどい。

医師会の懸念はもっともとはいえ「何を今さら!?」という感じだし、医師会に根回ししていなかったのは主催者側の手落ちだろう。このコロナ禍において医師会と連携していない自治体なんて、おそらくない*3。1年以上の長い時間をかけて自治体その他と協議するほどの大規模なフェスだ。「感染対策の本質は細部に宿る」のであれば、自治体を通して医師会を巻き込むことで、微に入り細を穿つような、より本質的な感染対策ができたかもしれないのに。双方が連携すべきところで、なぜか双方が対立を煽るようなことばかりしている。

なんでだろう?なんでいつも対立するのか。ワクチンを接種しない人への差別もそうだ。コロナウイルスもそのワクチンも、得体の知れなさは同じ。怖くて当然だ。強要する賛成派、強要する反対派、どちらも同じように思える。なぜ、自分の“本当”が正しいと言い切れるのか。なぜ、自分の“本当”を石礫にして自分とは違う人間を殴りつけることができるのか。まともじゃないのはお前かもしれない。そもそも“本当”なんてないのかもしれない。

一方的な非難、自治体や地方に住む人々の保守性をくさすようなツイートを見かけてうんざりする。声明文のなかに「音楽を止めるな、フェスを止めるな」とあるけれど、あの界隈はなんで突然感傷に浸るんだろう?「絶望」ないし「生きる理由」みたいな。もちろん、私にとっても音楽は大切なものだ。かけがえがない、と思う。でも、あの感傷はよく分からない。今回の件は、億単位規模の事業と、雇用と、一時的な機会の喪失であって、“音楽の”喪失ではない。音楽はそう簡単に鳴り止まない。本が売れなくなっても物語がなくならないように、フェスが中止に追い込まれても音楽が鳴り止むことはない。私は確信する。物語や音楽という入れものは人間の身体よりもよっぽど頑丈で、コロナに罹患することもない。

感傷が感情を煽る。対立を焚きつける。あんな感傷的な物言いじゃなく「音楽を生業としている人の生活を止めるな」だと、ロマンチックさに欠けるのだろうか?守るべきは音楽ではなく人だ。生活だ。音楽は強いからほっといてもいいよ。

ついでに、デマを含むツイートには警告が出るようになったと知り、もはやSFみたいだな、と思う。「偉大な兄弟があなたを見守っている」*4だよ、ほんと。私たちはサイエンス・フィクションを生きている。このTwitterの対応に違和感を抱くのは私だけなんだろうか。たとえ回答が同じになるとしても、ただ漫然と「偉大な兄弟」の導きのままに出した答えと、自分で調べて、自分の頭で考えて、自分で決めた答えとでは、同じようで、まったく違うものだと感じる。

ともあれ非常に疲れる。私は多数派であり、少数派でもある。好かれもし、嫌われもするだろう。私の書くことは本当かもしれないし、嘘かもしれない。気をつけたほうがいい。


*1:自称を含む。

*2:ROCK IN JAPAN FES.2021

*3:私の住む市では、コロナウイルスが蔓延し始めたころに、市と医師会連名のチラシが配布された。

*4:ジョージ・オーウェル1984年』より