部屋と沈黙

本と生活の記録

紙の束と石ころの山

オンライン紙博で配信された柴田元幸の朗読ライブを観る。

柴田先生の「いま、これ訳してます」という作品が3つ朗読され、そのうちのひとつがシャーリイ・ジャクスンの『くじ』だった。江戸川乱歩が言うところの「奇妙な味」好きとしては、怖くてへんてこな小説を書くシャーリイ・ジャクスンのことももちろん好きで、いくつか読んだことがある。

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ただ、この『くじ』だけは、どうしても好きになれない。

いや、という漢字には厭と嫌があって厭、のほうが本当にいやな感じがあるので、厭を練習。厭。厭。
川上未映子『乳と卵』より

「本当にいや」を感じると、いつもこの文章を思い出す。本当にいや。厭。厭。

物語の冒頭に登場する大きな石ころの山、子どもたちのポケットに詰め込まれていく丸い石が、不安を煽る。何かとても酷いことが起こりそうな悪い予感が積み上げられていく。村人たちは、これから何が行われるのかを知っている。「くじ」だ。ただ、読み手である私だけが“知らない”。その心許なさと、怖さ。初読の不穏さは別格だ。

1948年、雑誌『ニューヨーカー』に発表された当時、読者から激しい非難にさらされたという『くじ』は、今やシャーリイ・ジャクスンの代名詞になっていて、文春文庫の『厭な物語』というアンソロジーにも収録されている。

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ええか、くじは“いつだって”あったんじゃ。

77回の「くじ」に参加し、もはや「くじ」を引くことに疑問すら覚えない石頭のワーナーじいさまも、たまに真実を言う。「くじ」は“いつだって”ある。かたちを変えて、今も。石の代わりになるものなんて、いくらでもあるのだ。あらためて用意する必要はない。それこそ道端の石ころみたいに、そこら中にある。もしかしたら、それはもう、お前の手の内にあるのかもしれない。

そう思わせるところが、『くじ』を名作たらしめてる所以じゃないかな。人間が持つ根源的な傷について書かれている。これはあれだ、『インヒアレント・ヴァイス』と少し似てるし、このコロナ禍の構造ともよく似てる。誰もが例外ではない。厭な“物語”で終わらせることができない。フィクションですむのなら、どんなによかったか。

だからこそ、ほんとに厭。『インヒアレント・ヴァイス』にはドックがいたけれど、『くじ』にはいない。じゃあ、この世界には?

手を見る。握りしめる。そこに石がないことを確かめるみたいに。


おまけ
曽我部恵一が濁らないってことを、この紙博で初めて知った。そかべけいいち。澄んだ声とざらついた声が同居した歌は子守唄のようだったり、朗読のようだったり、ラップのようだったり、ただの叫びだったりした。約50分、MCなしで歌い続け、そのまま立ち去ったかと思えば、ギターをグラスに持ちかえて「あつい!」と言いながらステージに戻り、へにゃへにゃしている。

あと、弾き語りをする男の人って、もしかして全員ロマンチストなの?という疑念が湧く。なんか最近、そんな気がする。