部屋と沈黙

本と生活の記録

揺れる

このあいだの朗読で、柴田先生が「声に出して分かりにくい言葉は、黙読でも分かりにくい」とおっしゃっていたのを思い出す。「翻訳するときに気をつけていることは何ですか?」という質問への回答だ。

議長の消え入るような「どうぞ」を一拍目とすると、二拍目はわたしがはっきり叩きつける「わたし」で、三拍目ではみんなが息を呑み、四拍目でわたしは「思ったんです」と強く踏み出す。そんな風に裏を強く、表は力を抜いてしゃべり続ければ、そのうちうまくスイングしていく。
多和田葉子『雪の練習生』より

私が文章を書くときも、声の持つ揺れを意識している。むしろ、気にしているのはそれだけかもしれない。テーマも中身も特にない。言いたいことも、あんまりない。

なんというか、言いたいことを言うために書いているというよりも、輪郭がぼやけてよく見えない「何か」を、もっとよく見るために書いている。書きながら、近づく。そうやって視野に入れて、見えたところを言葉で囲む。あるいは、遠く響く音に書きながら近づく。音だけが聞こえる打ち上げ花火を見てみたいから書く。

リズムさえ合っていればいい。そうすれば、“そのうちうまくスイングしていく”。

ミュージシャンに良い文章を書く人が多いのも、それが理由なんじゃないかと勝手に思っている。たとえばthe band apartの木暮さんとか、フルカワユタカもそうだし、このあいだの曽我部恵一とか、いしわたり淳治のコラムも読んでたな、あとは星野源とか。

そういえば、向井秀徳も本を出してるんだけど、なんとまだ読んでいない。向井さんが好きなのに、こういうところがぼんやりしてるっていうか、永遠のにわかだなと思う。

音楽活動をしている(していた)小説家であれば、川上未映子町田康中島らも中原昌也とかかなあ(思いついたままテキトーに書いてるから、違ってたらごめん)。村上春樹は小説家になる前にジャズ喫茶を経営していたというし。

ちょっとだけ羨ましい。いや嘘、すごく羨ましい。才能って、あるところに多発するんだよ。

私には言葉しかない。この国の一般家庭に生まれつけば、ほとんどの人に与えられる日本語の読み書きしかない。特別な才能によって手に入れたわけでもなく、道具としてはありふれている。すぐに始められる。言葉は誰に対しても開かれている。

だから言葉は誤解を生み、誰かを傷つけ、拒絶し、励まし、慰め、愛すかもしれない。ただ、抱きしめるのには少し足りない。身体は言葉の代わりになっても、言葉は身体の代わりにはならない。言葉は「失望」と「希望」のあいだで揺れる。美しく、醜く、強くて脆い言葉の危うさに、どうしようもなく惹かれている。

声が持つリズム、「表」と「裏」、「失望」と「希望」のあいだで揺らせ。

日本語の読み書きなら、ずっとやっていられる。書けないことはあっても、飽きたことは一度もない。私の文章のいちばんのファンは私で、いちばんのアンチも私だ。私にあるのはそんくらい。


おまけ
ごく稀に、文字入力の予測変換が「何か」が何なのかを教えてくれる。「ん!?これかーっ!」みたいな。過去の私が書いたのか、Siriの計らいかは分かんないけど、ラッキー!って思う。あと、たまにことわざも教えてくれる。このあいだ、シャーリイ・ジャクスンの『くじ』についてあれこれ書いていたときには「石が流れて木の葉が沈む」と教えられた。世の理不尽。勉強になります。