部屋と沈黙

本と生活の記録

こだわりという名の檻

こんな日本語、フルカワユタカに即つっこまれそうだけど、たなしんみたいな“何もない”がある人を初めて見た。

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自分の好みやこだわりって、ある意味「制限」にもなるんだなと気づかされる。私だと、自分が身につけるものだとか、使うものに対してかなり強いこだわりがあって、そのこだわりに合うものだけを探し、選んでいる。たとえば好きな「緑色」と嫌いな「緑色」があるし、ちくちくするタグは取っちゃうし、「悲しみ」と「哀しみ」の中に入れる「かなしみ」の質は違う。そこに調和しない“何か”があると、気が散って仕方がない。

色と質感と雰囲気。いわゆる“ブランドもの”に憧れはあってもこだわりはなく、その“選択”は値段に左右されない。1万円以上するうつわを買うときも、100円ショップで日用品を買うときも、同じレベルで発揮されてしまう。

……窮屈でしょ。自分でもちょっと思う。なのに、どうしてもやめられない。そうすることが絶対的に心地良く、私を安心させるから。

ミニマリストほど物の話をしている。

というのは乱暴な言い方かもしれないけれど、ミニマリストシンプルライフ系のブログを読んだときの妙な感じ、その不思議さについて考えていたら〈そうか〉と気づく。彼らの多くは物の話ばかりしている。○○の時計、鞄の中身、ワードローブはこれとこれ――。彼らの「物」が持つ「替えのきかなさ」に、時どき息苦しくなる。物にとらわれない生き方って、本当はどんなの?
2014.12.12 「持たない暮らし、持つ暮らし」より

数年前にミニマリストを揶揄っておきながら、物にとらわれているのは私も同じだ。以前、職場のボスから賜った「“自分ルール”を作りすぎると他人と暮らせなくなる」という金言に「そんなの、もうほとんど手遅れです」と応えたことを思い出す。

手遅れだから、なーんにも頓着しない人か、頓着する部分がバッティングしない人じゃないと、一緒には暮らせない。……ほら、ここでもう「制限」がかかっちゃってる。

だからこそ、選ばない人、好き嫌いなく食べちゃう人、「なんだっていいよ」と言える人は強い。

不思議と水をはじくスポンジ、あるいは、おろしたてのタオル。吸水することだけに価値を置くなら役に立たなくても、それは軽いし、新しい。どこへでも行ける、何にだってなれる……かもしれない。

たなしんが今後、いろんな人から教え諭される「かっこよさ」をはじきまくり、何にも染まらなかったとしたら、それってもう“かっこいい”んじゃないか。私なんか、ほんとにいろんな人やものから影響を受けまくって矛盾し放題だけど、たなしんはずーっとたなしんってことでしょ。まじで稀有。すごいよ。自由すぎる。「制限」なんて何もない。ていうかおもしろい。水を吸わなさすぎて笑っちゃうよ。

私のために私が選んだ物たちに囲まれて、私は、その物たちに守られているような気がする。その物たちは、私が触れ、身につけるのを健気に待っている。私の檻は居心地が良い。でも、私が欲しいものはきっと檻の外にもある。


おまけ
LINEが提供するコミュニケーションのかたちを好きになれそうもなく、今までに一度も使ったことがない。その理由のひとつがスピード感で、「既読無視」という窮屈な空気に窒息しそうだったからだ。

そもそもメールの返信も遅いのよ。言葉は脆くて不完全だから、伝わり方をすごく気にしてしまう。「既読無視」しているわけではなく、既読してむちゃくちゃ考えている。それが図らずも無視してるようになっちゃうだけで。

気を許した人と会っておしゃべりするのは大好き。そういうときは、ほとんど考えるのと同時にしゃべる。表情とか、声のトーンとか、仕草とかで、足りない言葉を補うことができる。LINEだけなら「既読無視」になってしまう無言にさえ色がある。人間ってほんと、そのままそこにいるだけなのに、髪の毛の先まで情報のかたまりだよね。読めるところがたくさんある。

ちなみに、LINEを使わないもうひとつの理由は友だちが少ないから。鳴らないLINEなんて寂しすぎるだろ。鳴ったら鳴ったで気が散るし、鳴らないのは寂しい。もうどうしようもないからやんないの。私の友だちって、私のわがままさと遅さを受け止めてくれる人ばっかりだよ。まじでありがたい。