部屋と沈黙

本と生活の記録

物、物、物で殴れ

10万円 1万円が 10枚だ

給付金を受け取ったので、一句詠んでみた。季語は「10万円」。私の暮らす町では、令和2年6月初旬から同年8月下旬までを表す。

実家の母から連絡をもらい、10万円を取りに行く。3年ほど前から市内で一人暮らしを始めたものの、住民票は実家に残しているため、手続きから何からすべてを母に任せていた。

それにしても、10万円である。1万円が10枚もあるよ。手渡された銀行の封筒から現金を取り出し数え、思わず「おー!」と言ってしまった。その昔、地域振興券なるものがあって、そのときは一人2万円分の商品券を受け取ったように記憶しているけれど、今回は5倍の10万円で、しかも現金だ。もちろん「1万円が10枚しかない」人もいると思う*1。価値観のものさしは人によって違う。私が小学生なら「10万円 1000円札なら 100枚だ」って思うし、今の私にとっても10万円は大金だから、この、物量で殴ってくる感じには正直圧倒される。

いつもより薄いPOPEYEのページをめくりながら、博物学の偏執性と過剰な好奇心にどきどきしている。私は“みんぱく”が大好きだ。近くにそびえ立つ太陽の塔よりも、国立民族学博物館の収蔵品に心を奪われた。気が狂うほど多種多様で、雑多な物、物、物。圧倒的“物”感。私とは違う、私の知らない世界が、物量で殴りかかってくる。

みんぱく”オリジナルのトーテムポールえんぴつ。訪れた当時は大学生でお金がなかったから、鉛筆しか買えなかった。あー、ほんとに行きたい。何回でも行きたい。大好きなのに、今までに2回しか行ったことないよ。

物には力がある。“そこ”に物があるなら、別の物が“そこ”に入ることはできない。問答無用で空間を占拠する力だ。私にも「物としての身体」があって、そこには問答無用の、圧倒的な力があるはずなのに、問答(言葉)ばかりに頼っている自分を心許なく思う。

ん、てことは、筋肉と会話しながらとにかくご飯をもりもり食べて「おいしいね!」って笑うような人と付き合ったらいいのか!?……あーいいな、そんなの、言葉なんか絶対に敵わない。その圧倒的な身体性で、私の価値観を覆してくれ。

ともあれ、いつ出会えるのか分かんない人より、10万円でどこかへ行きたい。早く来年になって、4月になって、荒川河川敷のAGフェスとインターメディアテクに殴られたい。次の木曜の晩にあるthe band apartの配信ライブもめちゃくちゃ楽しみだけど、実物だけが持つ存在感には代えがない。本当にない。この感染症騒ぎで、心底実感した。代えはない。触ることのできる「物としての身体」があって、そこには問答無用の、圧倒的な力がある。私にも。それってすごく良いと思わん?

*1:Twitterで「10万円」と検索すると、盲目的にありがたがる人と、くさす人と、単純に喜んでる人がいて、くさす人は概ね税金の話をしている。

個人的には「国民のために使う」という名目で国に徴収されるお金が「税金」であると認識している。その使い道が本当に「国民のため」になってんのかよく分かんないから、腹が立ったりもやもやしたりするんだけど、今回の給付金に関しては、国民のために使われるべき税金が、とても分かりやすいかたちで国民のために使われた(還付された)のでは、と考えている。だからこそ、私自身は国に対して「ありがとう」とも思わないし「くそくらえ」とも思わない。国が国の仕事をしただけだ。とはいえ、件のマスクについては「お金(税金)の使い方が下手くそだな」とは思った。パフォーマンスとしても失敗してるし。

いずれにせよ、こういう話はあんまりしたくない。政治的なことは好きじゃない。なにより、生半可な知識と覚悟で発言すべき分野じゃないと思ってるから、注釈に書いてズルをしている。こんなだと、右からも左からも「政治は好き嫌いじゃない。お前、大人として、当事者として、恥ずかしくないのか」とか言われそうだけど、もう恥ずかしくていいよと思う。私なんか、10万円を受け取って「おー!」なんて言っちゃうくらいには単純で無知なんだから。ずっと生半可でいたいし、眠たいことを言っていたい。

でもやっぱり恥ずべきことなのかな……。いつも堂々巡り、逡巡してしまう。