部屋と沈黙

本と生活の記録

「今」が足りない

矛盾した言葉が好きだという年下の上司に、言葉じゃないですけど「今年の目標は不言実行です!と言う」のはどうですか、と提案すると、まあまあ気に入ってもらえたようだった。言い終わった瞬間に破綻する今年の目標。

金曜ロードショーで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観る。ドクの「未来へ戻るんだ」というセリフを聞いて、前述の「不言実行宣言」を思い出した。「未来へ戻る」、言葉の時空がねじれていて、すごく好きだ。

それにしても、おもしろかったな。小学生のころに一度テレビで観たような気がするけれど、ちゃんと観たのは今回が初めてだ。落雷の轟音のあと劇伴が止み、濡れた路面に二筋の炎が伸びて、風が吹き、音が止んだあの瞬間が、いちばんかっこいいシーンだと思う。来週も楽しみ。来週は楽しみがいっぱいあるよ。木曜、金曜、日曜に、配信ライブ、映画、配信ライブ。金曜日には有休を取りたい。

フルカワユタカのコラム『実験』を読んで、なんかもうしみじみ変わった人だなと思いながら、「同時性」みたいなものについてぼんやり考える。コラムの趣旨としては、右脳(音楽脳)を鍛えるために思考の一筆書きをしてみる、ということだろうと思う*1

私の書く文章には「同時性」が欠けている。いろんな時間軸にいる、もしくはいた、あるいはいるかもしれない「私」の寄せ集めのようなところがある。小学生のビーズ遊びみたいだ。いろいろな色、かたちのビーズを集めて、糸を通す。

そもそも「物語を読む」ことは「同時性」に乏しい。「今」読んでいる私は、「今」にはいない。私は物語のなかにいて、私の「今」に、私はいない。それを、幼いころから飽きもせず続けている。

私は、物心つく前から本が好きな子どもだったらしい。よく、幼い子どもが驚異の記憶力を発揮することがあるけれど、私の場合は気に入った物語の暗唱だったそうだ。ちなみに私の甥っ子は「きかんしゃとーましゅん」のキャラクター名だった。可愛すぎる。

本にまつわる最初の記憶は、4歳か5歳のころで、キンダーブックを買ってもらった幼稚園の帰り道、「読み終わったらまた買ってあげる」と言われたのが嬉しくて、その場で読もうとしたら「危ないよ」と怒られたこと。なんとなく微笑ましいが、そんなふうに本ばかり読んできたせいで、人より「今」を生きていないんじゃないかと思うとゾッとするよね。

Twitterの「いまどうしてる?」の問いかけに、私はいつも「今」ではないことで応じていた。「今」というビーズを集め、見て、触って、光に透かし、散々弄んだ上で、糸に通す。繰り返し、組み合わせて輪にするのが好きだった。

Twitterはきっと、ぱっと掴んだ「今」の手のひらを、そのまま開いて見せるようなものなんだと思う。いいな、そういうの。より身体に近い言葉のような気がする。私にはあまり無いものだから、憧れるよ。

私ができる“実験”は、最低でも週1回はTwitterに「今」を投稿することなのかもしれない(少ない?)。Twitterはビーズ、ブログはビーズの輪だとして、ビーズが美しければ、当然、ビーズの輪も美しくなる。あとは、水泳かな。泳いでいるときは、ほとんど泳いでいるだけだから、「今」ここにいる感じがする。県内の感染者数も落ち着いているし、来週からは泳ぎに行こう。

裾上げしてもらっていたパンツを取りに行き、ついでにまた買ってしまった。

あー可愛い、特におしりのところのギャザーの取り方が可愛いよー。いつも思うけど、洋服の可愛さに自分が追いついていないことが悲しいよ!あー。もー!そういえば、つい最近になって石田ゆり子とイニシャルがおんなじだってことに気づいて、あんなに可愛い人と、生まれてこのかたずっとイニシャルがおんなじだったんだ!って、ほんとに嬉しかったな。御守りにして生きる。

*1:私の仕事は、とある作家の言葉を借りると「専門的使い走り」の事務職で、普段から論と証拠で成り立つような場所で働いているから、診断するまでもなく完全に左脳寄りだ。ただ、最終的な決定権はすべて右脳に持たせている気がしている。いくら言葉をつくされても、嫌なものは嫌だし、好きなものは好きだもの。たとえば、電話で「なんかこの人、言ってることはおかしくないのに、面倒くさい感じがします!」という印象は、いざ対面してみると概ね当たっている。

私を本当に支配しているのはどっちなんだろう?