部屋と沈黙

本と生活の記録

言葉の拠り所は身体

金曜日、有給休暇という最高の不労所得を使い、取り立ててどうということもない1日を過ごす。いつもなら仕事をしている時間に朝ごはんを食べ、メイクをし、好きな洋服に着替えてから家を出た。3ヶ月ぶりに図書館へ行く。

書評コーナーの棚に並んでいた古川日出男の『おおきな森』は、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思うほど馬鹿みたいに分厚い。躊躇いながら手に取り(思ったよりも軽い)、窓際の閲覧台に寄りかかって最初の数ページを読む。それは「第二の森」から始まる。

言葉に声とリズムがあって、風通しが良い。午前のただなかにある図書館の開け放たれた窓からは、何かを知らせるためのチャイムが聞こえてくる。

「買う」のではなく「借りる」ことに多少の後ろめたさを感じながら、カウンターで貸出しの手続きをする。本当は、あらゆる作品に対してきちんとお金を支払いたい。作家であれアーティストであれ、私が良いなと思う人たちには、元気いっぱい稼いでほしいと思う。とはいえ、私の使えるお金には限りがあって、だとすれば選ばなければならない。「選ぶこと(選ばれること)」は同時に「選ばないこと(選ばれないこと)」でもあるから、「選択」はいつも少し哀しい。私に有り余るお金があれば、本体価格4,000円(税抜)でも、ぽんと買うのになぁ。

それにしても分厚い。返却期限の7/3までに読み切れるだろうか。“ページ”ではなく“センチ”で、読書の進捗状況を伝えようか。

銀行のATMで7月分の家賃を振り込み、帰りに本屋さんへ寄る。探していたMONKEY最新号を文芸誌の棚で見つけ、購入。言葉と声、文学とうた、詩と詞、原文と翻訳、黙読と音読周りの特集号「猿もうたえば」。最近、「言葉の拠り所は身体」というようなことをずっと考えていたから、ぜひ読んでみたかった。

Twitterの身体性についての“実験”も、比較的うまくいっているような気がしている。Twitterの「今」には隙間がある。風通しの良い「今」の、ゆるやかな層。“ビーズ”を詰めがちな私にとっては新鮮な発見だった。

自宅へ戻って顔を洗い、Tシャツとコットンのショートパンツに着替えてから、サンドイッチとコーヒーで昼食とする。本を読み、押入れのかごにたまった洗いっぱなしのしわしわシャツ、パンツ、ワンピースにアイロンをかける。取り立ててどうということもない、と思う。生活。

まだ書きたいことの切れっ端がいくつもあるけれど、まとまりそうもない。