部屋と沈黙

本と生活の記録

興味津々すぎる

ASPARAGUS渡邊忍がブログを書いている。

忍のブログ、シノヴログ。知らなかった。ていうか「シノヴログ」って良いね。ふたつの言葉のおしりの音とあたまの音が同じとき、くっつけてひとつの言葉にしたくなる気持ち、分かる。会話のなかで不意にそういう言葉が出てきたら、とりあえずくっつけたい。なんとも言えない駄洒落感。ひと文字分お得だし。

シノヴログの下ネタはわりと「最低!」なんだけど、不思議と嫌な感じがしない。以前、渡邊忍がライブのMCで調理師の資格試験に落っこちたことがあると言い「(調理師の道に進んでいたとしても)それはそれで楽しかったと思うんだけど、ーー」というようなことを話していた。その何気ないひと言が、今も印象に残っている。

音楽や芸術を生業にしている人は“唯一の道”を歩いていそう。特別な、その人にしかできないことだ。でもこの人は、自分の道を歩きながら、もし別の道に進んだとしても楽しかっただろうと思える人で、そういう人はたぶん、別の道を歩いている誰かについても考えることができる。その誰かにもいろんな道があって、いろんな楽しさと、いろんな苦しさがあると考えられる人なんだ。表面上はあんなにふざけてて、下ネタまみれなのに。それがなんか、すごく良いなと思った。

……とはいえ「話したこともない人の言葉尻を捉えてその人となりを想像したあげく好きになっちゃう」とか、やばい気がするな……。なんとなく申し訳ない感じもする。たぶん「話したこともない人の言葉尻を捉えてその人となりを想像したあげく嫌いになる」ことと表裏一体だからだろう。好意と悪意。表と裏。自分の想像だけで判断するのは危うい。押し付けたくない。私が“推し”という概念にいまいちハマりきれない理由もそこにある。

なにより、好意をやり取りしたい。もらったりあげたりしたい。「関係したい*1」。たとえば遠くの“推し”より近くの“犬”。私はそっちのほうが楽しくて、好きなんだと思う。犬の目に私が映るとき、私は私を実感する。

そもそも“推し”とは親しくなれる気がしない。だってさ、結局のところ本当に親しくなれる人って、お互いの好意が同じくらいの人同士だと思う。私が興味津々すぎる時点で、既にバランスを欠いている。興味津々同士でようやく、だよ。その点、犬は私に興味津々だし、私も犬に興味津々だから、すごく嬉しいし可愛いし好きで好きでたまらない。

*1:「関係もちたい」