部屋と沈黙

本と生活の記録

忍びかもしれない / 渡邊忍 F.A.D25周年シリーズ“210821” シノヴの三度目のお祝い三度目の正直 感想

あとどれくらいで「渡邊忍のハードなファン*1」になるのだろう?「渡邊忍のファン」であることは確かでも、ハードかどうかが分からない。ハードすぎると敵になってしまうのであれば、己のハードさは自覚しておくべきだ。でないと、自分でも気がつかないうちに敵になってしまう。

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2021.8.21 sat.
F.A.D YOKOHAMA

横浜のF.A.Dからテレビ中継*2された渡邊忍のワンマンライブを観た。音源を持っていないから、アーカイブが公開されている期間中は、空いた時間を埋めるように繰り返し聴いた。

以前、配信ライブ中に聞き取った英単語から必死にググった“IN DESERT”も聴けたし、車でよく聴いている“MEND OUR MINDS”のアコースティックバージョンも聴けた。聴き覚えのない曲もタイトルを言ってくれていたから、それもググってみた。渡邊忍とインターネット、本当にありがとう。ASPARAGUSの“you make me yawn”も良かったし、最後の曲も好き。ていうか曲が良い。あの曲のあの部分が好き、みたいなのがあっても、音の名前がよく分かんないせいでいつももどかしい。言葉と違って気軽にメモを取れないから、繰り返し聴いて、頭のなかで鳴らしてみる。きっとギターで弾けたら気持ちが良いんだろうな。このあいだ実家に寄ったとき、ふと「亡き王女のためのパヴァーヌ」の主旋律を思い出して、ためしに右手で軽く鍵盤を押さえただけでも気持ちが良かったもん。音に触るって、本当に特別なことなんだと思う。

カバー曲では、LOSTAGEの「こどもたち」がすごく良かった。曲も、歌詞も好き。抽象的で、余白がある。何かを伝えようとしているのが分かる。言葉に隙があると、自分を差し込みやすいよね。たとえば「愛してる」とかだと、あんまり隙がない気がせん?本当に、誰もが手に取って触れるくらいの言葉なのか、とも思う。それこそ子どもとか。もちろん、子どもには愛が理解できないってことじゃないよ。そうじゃなくて、誰かの心のうちにある愛のようなものを、子どもにも分かるように、指をさして、これとか、これとか、これみたいなことなんだよ、って言いたい。私の場合は文章で、いつも、そういうことをしたいと思ってる。……ん?あれ、カバー曲を褒め過ぎるのはあんまりよくないんだっけ?でもなー、ほんとに良かったんだよ!

あと、カバー曲にまつわるやばい失敗談はまさにフルスイングの空振りで、その空振りっぷりがあまりにも鮮やかだから、つい笑ってしまった。とはいえ、もし自分が同じようなことをしでかしたらと思うと本気の寒気がして居た堪れないから、詳細は書かないでおく。いやー、大事だよね、確認!

MCでは「俺なんか」とか「忍のくせに」みたいなのがどっかにいる、というようなことも話していて、あの渡邊忍でさえそうなのか、と思う。私からすれば、すごくかっこいい音楽をやっていて、アコギの音はきれいだし、なーんかテキトーで笑っちゃうのに嘘じゃない感じがとても良いと思う。それなのに、だよ。良いところてんこ盛りなのに。それに比べたら私の良いところなんてちょっとだよ。ちょっとあるけど、でも、ちょっとしかない。

私は書きたい。存在を言葉に入れて、置いておきたい。その言葉がきれいなかたちをしていたら、すごく嬉しい。でも、私じゃない他の誰かが書いたもっともっときれいなかたちの言葉を見つけると、嬉しいのに、胸が苦しくなってしまう。あれは私じゃない。あの美しいものは私のものじゃない。

私の文章のいちばんのファンは私で、いちばんのアンチも私。それがずーーーっと、一生、続く。自分の言葉に満足できる日なんて、死んでも来やしない。むしろ、そんな日が来てしまったら、もう新しい表現の場所には辿り着けなくなってしまう。楽しい楽しい地獄だよ。

at the mid of a living hell
ASPARAGUS“LIVING HELL”より

今だって、この、呪詛のごとくびっしり並んだ文字を眺め、我ながらまじで気持ち悪い、やばいファン、短い言葉で鋭利に突き刺すのがかっこいいのに、こんなの、技の名前を披露しているあいだに刺されるやつじゃん、ダサすぎる、と思う。

でも「そんなやべえことをやりたくなっちまう」。“I wanna be a singer songwriter”には、そういう楽しい地獄みたいな、相反する感覚がちらついている。打ちのめされるのは、きっと表現に対して誠実だからだ。私もそうでありたい。まだ見たことのない表現のためだったら、打ちのめされて傷ついても構わない。だってさ、まだ見たことのないきれいなかたちの言葉があるなんて、やっぱり嬉しいよ。それが私のものじゃなくても。

もし、この生き地獄のさなかで自分自身に悪態をつきたくなったら、自分の大切な人にも同じことが言えるのかを考える。私の場合、甥っ子や姪っ子に同じことが言えないのなら、それは言い過ぎ、みたいな。よくさ、自己啓発本とかで「自分のことを褒めてあげましょう」とか、あるじゃん。私、あれが苦手で。どうしても「思い込み」「誤魔化し」「見ないふり」が混じって、無理が生じてしまう。そもそも、自分自身を手放しで褒めることは、私にとってかなり難しいことなのね*3。それよりかは、大切な人の目を見て伝えたい言葉かどうかで判断すると、比較的うまくいく。必要以上に自分を傷つけなくてすむ。家族でも恋人でも飼ってる犬とか猫でもいいし、なんなら大事にしてるぬいぐるみでもいいよ。大切な人の前では「思い込み」「誤魔化し」「見ないふり」のない自分でいたい……って、なんの話してんの!?なんかいきなり自己啓発みたいになってるけど、こういうの好きじゃないのに。いつも、自己啓発本なんかに啓発されてたまるか!って思ってるし*4、他者を安易に啓発しようとしてる奴はあやしい奴!って思ってる*5

気を取り直して今回の下ネタは、正しく最低な「昭和の上司のセクハラ」で笑っちゃった*6。品がないこと言ってんのに、内心「上手いこと言うな……」と妙に感心してしまう自分に腹が立つ。なぜか?だって、感心するってことは、私もその上司と同じくらい品がないってことだからだよ!!!いやーっ!知りたくない!いつまでも無垢な少女のようにきょとんとしていたかった。いつのまにか私も下ネタを解する女だよ!

はたして。

私はハードなのか?想いのあふれかたがなんか違う。え、そこ漏水する!?みたいな感じじゃん。ほとんどが“私”の話。もしかすると、私は私のハードなファンなのかもしれない。ハードすぎてたまに敵になるし……。私の私に対するハードさに比べれば、渡邊忍に対するハードさなんて大したことないよ。だからきっと大丈夫。まだやばくない、気持ち悪くない……はず。

ともあれ、渡邊忍は私にきっかけをくれる。それを書くことで、私は別の場所へ行くことができる。そこはもしかしたら、新しい表現の場所かもしれない。それがおもしろくてたまらない。


おまけ
やばいな〜。やばすぎる。ほんとはさ、冒頭で謝ってたの。謝罪文。渡邊忍のこと、3割くらいしか書いてないよ!ごめんね!!!って。でも、それやったら言い訳になっちゃうじゃん。私の文章を読んでくれる人に失礼だし、そもそも私が可哀想じゃん!なんで謝らんといけんの、って。だからカットしたんやけど、あまりのやばさに耐えられなくて、ここに書いちゃった。地獄。楽しい楽しい地獄!せめぎ合いだよ、いつも。

*1:「くノ一」あるいは「忍たま金太郎」

*2:昭和の「テレビ中継」は令和の「配信」

*3:これはたぶん“育ち”としか言いようがない。ただ、“育ち”のことを書き始めるとまじで長くなるので割愛する。

*4:自己啓発本が好きな人、ごめん。

*5:これは偏見。まじでごめん。

*6:「俺のワクチンチン、打ってやろうか〜なんて絶対に言っちゃだめ!」とか言いながらにこにこしていた。