部屋と沈黙

本と生活の記録

私は私に話しかける

Twitterのタイムラインに差し込まれる、いつもは邪魔でしょうがないプロモーションツイートの呑気さが救いになるほど疲れきっていた。

取り急ぎ、タイムラインに平穏を取り戻すべく、とあるニュースサイトのフォローを外した。もうひとつのニュースサイトはミュートにしてリストへ入れ、タイムラインのトップに固定された「新型コロナウイルスに関する情報」へのリンクを非表示にした。iPadでは、2カラムから1カラムに変更し、トレンドの表示をなくした。

これで、私に新型コロナウイルスの情報をもたらすのは、概ね、ナショナルジオグラフィック日本版だけとなるだろう。ナショジオのいいところは、生物の生態や研究に基づく理系的な観点から、事実そのものを伝えてくれるところだと思う。事実が私を落ち着かせる。それがどれだけ悲惨でも、事実が事実でなくなることはないからだ。

それに、1日のツイート数もちょうどいい。ニュース記事の引用ツイートをリツイートしまくったり、昨日ツイートしたアーカイブ記事を今日もツイートしたりしない。

そもそも、100とか200ものアカウントをフォローしている人にこそ驚く。100のアカウントが1日に1回ツイートすれば、それだけで、1日に100ものツイートを確認しなければならない。しかも、そのツイートにコメントし、かつ、自分自身がツイートすれば、それに対するコメントに目を通し、返し、確認し、……。

Twitterを始めてみたものの、なかなか馴染めないと思っていたけれど、原因はこれか。やることが多すぎる。考えることが多すぎる。

その点ブログは、ほとんど自分に話しかけているようなもんだから気が楽だ。話す相手が“私”ならば、同じことを何度言ってもいいし、迷惑をかけても構わない。引き出しのなかの日記帳ではなく、ブログに書いて公開することが、自分の中の「他者の目」を開く、訓練になっていると思いたい。

小学校5年生のころ、調べもの学習を1枚の方眼紙にまとめるという課題があって、そのときに先生が言った「3年生の子が読んでも分かるように書きましょう」という言葉を今も大事にしている。おそらくあのときに、私は「他者の目」をもらったんだろう。誰かの目を借りて、自分自身を見ること(このブログを読んでくれる人を2学年下に見ているわけではない、念のため)。

もちろん、ツイートだって他者の目に晒される文章なのだが、ブログと違ってサイズが小さいためか、他者の目を開くまでもなく私情である。それがTwitterのいいところだ。好きな人の私情は、それだけでおもしろい。たとえそれが「ごはん食べた」だけだったとしても。

ポジティブな意見もネガティブな意見も、あるいはただの罵詈雑言も、私が持っていない目から見えるいくつもの景色は、愉しくて怖くて腹が立つから、おもしろい。