部屋と沈黙

本と生活の記録

髭 “LiVE STRM HiGE – ZOZQ – ” 感想

iPadに取り込んだ9/10のライブ映像を観ながら(正確に言うと“聴きながら”)、12/3のライブを思い出している。配信ライブの良いところは、開始直前まで洗濯物をたたんでいてもいいし、好きなお酒をゆっくり飲んでもいいし、メモを取ってもいいところだ。

興味がないことはもちろん、興味があることも順に忘れていく。セットリストは覚えられない。聴くばかりでステージを観ていない、なんてこともままある。もったいない!と思って観ても、しばらくすると聴いてしまい、やっぱり観ていない。

もはや下手くそなんだと思う。観て聴いて覚えとく、を同時にするのがすごく苦手。その点、配信ライブであれば、聴いたあとにアーカイブで“観て”、鉛筆とメモ用紙で“覚えとく”ことができる。セットリストはきっと親切な人がまとめてくれるだろうと思ったから、私はただ「忘れないでほしいな」「いろんな場面で会おう」「会おうよ」とだけ書いた。

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2020.12.3 thu.
FEVER

前回の無観客配信ライブとは違い、会場にはお客さんの姿も見える。このコロナ禍以降、私自身はライブハウスへ行く機会もなく、感染拡大予防ガイドラインに沿って観客を入れたライブを配信で観るのも初めてだった。

正直なところ、こんなにも異様な雰囲気なのか、と思った。“見えない何かに見られている”。それはもう空気、としか言いようがない。不思議な感覚だ。今までにない。今まではもっと“与える者”と“与えられる者”がはっきり分かれていたように思う。演者と観客。ステージの上とステージの下。

それが今や、幸か不幸か“見えない何か”の存在によって双方が結びつき、同じ気持ちを持ち寄っている。“与える者”は“与えられる者”、“与えられる者”は“与える者”。反転し、行き来する。往来がある。この世界はソーシャルなディスタンスのただなかにあるのに、距離が近づいたものもあるのか。

ファンになってから日が浅く、聴いたことがある曲もあれば、聴いたことがない曲もあった。2010年に発表されたという「サンシャイン」も、今回の配信ライブで初めて聴いた。須藤寿が「なにも感じないのさ」「なにも感じたくない」と歌い「僕は言葉を脱ぎ捨てて/君を感じたい」と歌ったとき、不意に指をさされたような気がした。その矛盾した感情を、私もよく知っている。

わりと多くの人々が感受性を礼讃し、欲し、備わっていることを示そうとするけれど、本当にそこまでありがたいものなんだろうか。感受性は、他人の感情を横領する。自分自身の感情はもちろん、他人の感情にさえ手を伸ばし、引き寄せ、食い散らかして、いい気になったり、苦しくなったりする。感受性には、そういう浅ましい側面もあるんじゃないか。

感情のつまみ食い。吐いてなお食べたという古代ローマの貴族のようだ。卑しい。行き過ぎた感受性は卑しい。

私は、他人の感情に影響を受けやすいたちで、そういう自分を浅ましく思う。自分自身の感受性を大切にしたいと思いながらも、その感受性が煩わしくてしょうがない。もし何も感じなければ、自分自身の浅ましさからも目を背けていられるのに。

実際、この文章も、これまでの文章も、個人的な印象のなすりつけでしかない。Twitterに共有するとき、ハッシュタグをつけるかどうかで毎回悩むよ。私の指紋でべたべたに汚れた、私の好きなものたち。髭にも、髭のファンにも申し訳なく思う。でも、私にはこれしかない。何も感じないではいられない。この浅ましさも私だった。

須藤寿が「忘れないでほしいな」と言ったとき、なんとなく、すべてのことに当てはまるような気がした。「覚えていること」と「忘れないでいること」は似ているけれど、私が大切にしたいのはきっと「忘れないでいること」なんだろう。

感受性の美しさも、その浅ましさも忘れないでいる。矛盾を抱えたまま会いにいく。それは、いろいろな場面の、別の自分自身かもしれない。



9/10に配信されたライブのダイジェスト版。かっこいい。