部屋と沈黙

本と生活の記録

素敵じゃない私

とうとう書いてしまい*1、すこし落ち込んでいる。気持ち悪さにまかせて嘔吐した言葉が、とても見苦しいものに思えてくる。すべて、私の稚拙な思い違いなのではないか。感情的な文章を書くと、必ず揺り戻しがある。

ワクチンに限らず、私がなんらかの是非を検討するときは、自分と同じような意見よりも、自分とは相反する意見のほうをより重視する。なぜなら、反対意見のなかにこそ、自分が見落としてしまった“主張のほころび”みたいなものが見つかるからだ。

たとえば、私が「おもしろい!」と思った映画を「おもしろくない!」とする人の意見のほうが、私にとってはよりおもしろい。私とは違う感覚を持った人ほど、私に新しい気づきを与えてくれる。私は低評価レビューをおもしろく読む*2。そして、頭のなかで彼らの「おもしろくない!」に反論し、同時に、彼らが与えてくれる新たな視点を取り込みながら、自分のなかの「おもしろい!」を深めていく。

反対意見に引っ張られそうになったら、自分の主張に立ち戻り、あらためて考える。私は影響を受けやすい。だからこそ盲信してはいけない。流されず、引っ張られず、積み上げるように考える。そうやって、すこしずつ修正していく。自分の頭で考えるとは、こういうことだと思う。

多くの人から支持されるものには、それなりの理由がある。かつて『魔法少女まどかマギカ』を一気見したときにそう思った*3。「流行っているから」という理由だけで敬遠するのは馬鹿げているとも思った。みんなが好きだから、嫌い。その判断の軸には“自分”がない。

同じように「みんながやっているから」「みんながそう言っているから」ということが、私の意思決定の決め手になることはない。“私”と“あなた”は違う。それに、少数を切り捨てる多数決が、暴論を生み出すことだってあるのだから。

あの文章をきっかけに、マイノリティであることを告白する怖さを初めて実感した。私はどちらかというと個人主義的な傾向があるから、“私”と“あなた”が違うのは当たり前で、たとえば同性愛だろうが異性愛だろうが受け入れる、自身のセクシュアリティを告白することはそんなにも困難だろうか、と不思議に思っていた。でも実際は、社会の大多数が「良し」としていることと私は違う、と告げるのは、ものすごく怖い。私は本当に、なんにも分かっていなかったのだ。恥ずかしいよ。自分の至らなさに落ち込む。

でも、書いてみて良かったと思う。私だって、ちょっとずつマシになってるし、賢くなってる。そう思いたい。

本当はもっと、ポジティブなことだけを書いていたほうがいいのかなぁ。たまに考える。でも、ネガティブなことが何もないなんて気持ちが悪い……というか、私じゃない感じがする。嬉しかったり、しょんぼりしたり、腹が立ったり、するよ。いつも元気でにこにこ機嫌よくいられたら素敵だけど、そんなの全然私じゃない。素敵じゃない私も私だと思ってやらないと、私が可哀想な気がする。

*1:

*2:あくまでも低評価“レビュー”だ。ただの悪口は読むに値しない。

*3:おもしろかったです。