2021年が終わり、2022年が始まった。あけましておめでとうございます。
2021年を振り返るのは、なんとなく気が滅入る。世界全体が恐ろしく窮屈になってきている気がする。疑問を抱くことすら許されないような空気。強制。対話はない。
「今日は寒くなるみたいですね」
そう声をかけられ、テレビをほとんど見ない私は「そうなんですね!……そっか、雨の日の次の日って寒くなりますもんね〜」と応え、あることに気がついた。
私は絶えず「どうしてだろう」と考えている。
「今日は寒くなるみたいですね」
「そうなんですね!(知らなかった、テレビ見んしなぁ、テレビ見なさすぎるのも考えもの、でも、どうして寒くなるんだろう?)……そっか、雨の日の次の日って寒くなりますもんね〜」
なんというか(めんどくせぇ〜!)である。エレベーター内の無言をつぶす世間話中の世間話、ただの、お天気の、話なのに!「なぜ」「どうして」を結びつけてしまう。不必要にこねくりまわさず、もっと素直に受け取んなさいよ、と思う。これが私の思考の癖なのだろう。飲み会でトイレに立ち、洗面台で手を洗いながら、鏡に映る自分の顔がいつもより色白に見えるのは、おそらくアルコールの作用と「楽しい!」という感情によって瞳孔が開き気味になっており、通常よりも多くの光を取り込むからだろう*1、というようなことをにやにやしながら考えてしまう性分なのだ。
私は「なぜ」「どうして」を頼りに世界を見ている。「なぜ」「どうして」を使えば、その先にある「何か」を取り出せそうな気がする。その「何か」を見てみたい。懐疑的な意見は押し込められ、疑問を抱くことすら許されない世界が到来したら、私の目は濁ってしまうだろう。私は私以外で考えることができない。
誤魔化すことだけはするまい。正直に書く。それは大切な人の目を見て伝えられることか。私が私を誤魔化すようになったら終わり……ってこれ、ほぼ反町隆史の“POISON”じゃんね*2!
よし!2022年は“POISON”でいく。そうすれば世界中の赤子が泣き止む。