部屋と沈黙

本と生活の記録

芸術と政治、それぞれの反戦 / アーティストの反戦活動あるいは政治的活動への賛否について考えたこと

芸術と政治。音楽や文学などの芸術と、反戦プロパガンダなどの政治は分けて考えたほうがいいのだろうか。

私はもやもやしていた。分からない。反戦を掲げなければ、それがすなわち戦争に加担していることになるのだろうか。「善」と「悪」、「白」と「黒」、ひとつあるいはもうひとつ。そのどちらか。本当にそうだろうか。世界がそんなに分かりやすいとは思えない。

週末の大半を落ち込みのなかで過ごし、お風呂に入ってようやく気持ちが上向いた。

そして月曜日の朝、事務所の給湯室でお茶を淹れようとしたときに、ようやく気がついた。

戦争状態のさなかでは、したたかになるしかない。
私は、表現に対してしたたかになりたくない。

たまにこういうことが起こる。すこし時間を置いたあと、一瞬で分かる。通電する。

私はある問いへ答えようとするとき、信頼できそうな情報、そうでない情報、それらに対する人々の反応(Twitter、ヤフコメ、掲示板など)から始めて、正論、曲論、デマ、ガセ、詭弁、誹謗中傷に至るまで、ひと通り目を通す。だから傷つくし落ち込むのだが、そうしないと、その場に漂っている空気みたいなものがつかめない。

ちなみに今は、ロシア国民にすこしでも配慮しようものなら袋叩きに合うんじゃないかというくらい、言論に偏りがある*1。「ロシア人は全員死ね」に、平時では考えられないほどの賛同が寄せられているのだ。その思考回路は、翻って「日本人は全員死ね」と同等なのだが、もし彼らが同じ立場に立たされたとき、彼らはやはり国と心中するのだろうか。連帯責任、異物の全排除、疑問も持たず「進め 一億 火の玉だ」か?あまりにも偏っているので、これからいくらか揺り戻しがあるような気もする。振り子みたいに。この世に綻びがないものなど存在しない。まして戦争である。至るところに綻びがあると考えたほうがいい。

私は戦争の一切を否定する。力で蹂躙し、命を奪うよう命じるすべての人間を軽蔑する。

しかし、ひとたび戦争に巻き込まれてしまったら、そのときはもうしたたかになるしかないだろう。空気を読み、忖度し、取り入り、圧力をかけ、懐柔し、必ず、場をコントロールする側に立つ。自国の利を優先する。なぜなら、自国こそがいちばん大切で、絶対に失いたくないものだからだ。他国を傷つけることはなくとも、切り捨てることがあるかもしれない。それはすなわち、私が心の底から軽蔑する支配者らと似たような振る舞いをする、ということに他ならない。想像しにくければ「自国」をあなたの大切な人に置き換えてみてもいい。絶対に失いたくないものを守るために、あなたならどうするか。

それは策略であり、政治であり、ゲームである。おそらくマーケティングにも似たような側面があるだろう。芸術が感性なら、政治はロジックである。要するに私は、そういうものを自分の表現に持ち込みたくないのだ。ロジックはいらない。空気には流されない。忖度しない。取り入らない。圧力をかけない。懐柔しない。自分の表現を誰かにコントロールされたくないし、自分自身でさえ自分の表現をコントロールしたくない。コントロールできない部分から生まれる表現を追い求めている。

自身の表現のとなりに反戦を掲げるのではなく、戦争の愚かさを己のうちに取り込み、己のしたたかさやある種の冷血を自覚したうえで、そのすべてをどろどろに溶かし、睨みつけ、戦争のなんたるかを表現したい。

むろん、反戦を掲げるアーティストを批判しているわけではない。目的地が同じでも、そのアプローチのしかたが私とは異なる、というだけだ。それぞれの反戦がある。あなたの反戦はどういうかたちをしているのだろうか。

そしてもし、戦争状態のさなかでもしたたかにならずにすむ方法を知っていたら、私に教えてほしい。自分も相手も傷つけずにすむのなら、それがいちばん良い。私の主張の綻びを指摘してほしい*2。その綻びを発見することができれば、より本質に近づくことができる。私はそれが見たい。

*1:情報の内容、媒体による。

*2:今のところ考えられる綻びとしては「遅さ」だろうか。私の反戦にはスピード感がない。今現在、傷ついている人を守れない。現実に即していない。