部屋と沈黙

本と生活の記録

分かっている人々

いずれにせよ当事者が、彼らの「真実」のなかで幸せに暮らしているのなら、それで良いのかもしれない。私が水を差す権利はない。それは彼らの「真実」で、私のものではないから。

私はどちらかというと理屈が好きで、事実がねじ曲げられていると無性に腹が立ってしまう。事実は不変だから美しい。それは不可侵で、ともすれば残酷だ。事実はときに人を傷つける。不変なものなどほとんどないこの世界で、唯一であることの価値。

反面、感情は不思議でよく分からない。理屈では説明できない動きをする。不安定で、美しく、グロテスクで、おもしろい。だから、物語や音楽や芸術が好きだ。

職業柄、後遺障害診断書を取り扱うこともあるけれど、書きたがらない医師が割といる*1。彼らもふつうの人間で、面倒ごとには巻き込まれたくないのだろう*2。訴訟になれば証拠となり、有力な判決が出れば、以後判例として引用される。後遺障害診断書は、それらを支える根拠となる。

個人的には、コロナにせよワクチンにせよ、現時点で後遺障害の認定を行うことは、ほぼ不可能だと思っている。コロナもワクチンも分からないことだらけで、後遺障害との因果関係を立証できない。根拠が足りない。Twitterで「なぜ後遺障害認定をしないんだ!」と憤っている人がいるけれど、しないのではなく、できないのだと思う。分からないことが多すぎる。診断書を書ける医師がほとんどいないし、認定できる医師もまたいない。そうこうしているうちに時間だけが経過し、ウイルスは変異を続け、因果関係の立証はより困難なものになっていく。時間の経過によって要因が増え、原因を特定しにくくなるからだ。B型肝炎訴訟くらいの大きなうねりになれば、おそらく認定されるようになるだろう。でも、いつになるのか。

それに、そんなうねりになることを私は望んでいない。なんか熱が出て大変やったけど大丈夫やったね、しんどかったけど治ったね、というのが私の希望だ。たのむから、そうであってくれ。

A町の誤送金問題で、うちの事務所の上司が仕入れてきた話を聞いていると、あらためてメディアの恐ろしさや欠陥に気づく。直接的な論点ではないから取り上げられない事実、部外者の無知による見当違いな批判が、世論をねじ曲げていく。メディアでは言及されない事実を知れば、おそらく印象も変わるだろう。

過去にはテレビのドキュメンタリー番組に関わったこともあるけれど、彼らは事実をドキュメント(記録)するつもりなんてないみたいだった。彼らは、彼らが描きたい物語に沿って私にコメントを求め、満足そうに記録していく。事実よりも先に用意された物語。そんなお仕着せ、メディアって案外つまんないもんだな、と思った*3

私には分からない。分からないことのほうが多い。私は一生“分かっている人”にはなれない。そもそも“分かっている人々”は、自分とは異なるを意見を「分かっていない」とあげつらい、見下し、揶揄しがちだから嫌い。

あーあ、腹が立つと書いちゃう。結局は私も感情に支配されているんだな。気をつけよう。でも、ずっともやもやしていたから、書いてせいせいした。ここにある好きも嫌いも分からないも、すべて私のものだ、という実感がある。

*1:私の感覚では、全体の3割くらい。

*2:私だってそうだ。

*3:一事が万事そうだとは思わないし、思いたくない。