部屋と沈黙

本と生活の記録

個人の判断

髪を切った帰りに図書館へ寄る。入り口の検温機にマスクの着用を促されたものの、表示された体温は平熱で、咳、くしゃみの症状はなく、ひとりなのでおしゃべりもしないし、混雑もしていなかったので、そのまま入館した。図書館の職員さんからは着用を促されることもなく、目についたおもしろそうな本から順に借りて帰る。

マスクの着用が個人の判断となって約1ヶ月。いなかに暮らしていると、ほぼすべての移動は自家用車だし、人は少ないし、私は概ねひとりぼっちなので、個人的には「マスクをしなくてもよさそうだ」と思う場面が多い。でも、私の暮らす町では、まだほとんどの人が屋内、屋外を問わずマスクの着用を続けている。おそらく、コロナウイルスのほかに花粉の飛散も関係しているのだろう。

私は今のところ、日常生活のほとんどの場面でマスクを着けずに生活している。外し始めた当初は、マスクをしていないことへの違和感や、えも言われぬ羞恥心があったものの、2、3日もすると空気吸い放題が快適すぎて、本当に必要な場面以外は絶対にしたくないと思うようになってしまった。

そもそも、下着の縫い目や洋服のタグのちくちくが嫌いで、マスクも苦手だった。美容室で髪を切ってもらうとき、マスクをしながらうとうとしたせいで、息苦しさに気が遠くなりかけたこともある(今日は「マスクをしたほうが良いですか?」と聞いた)。それでも、Twitterでは「酸欠なんて気のせい」というムードで、だから黙っていた。私にとっては、マスクを着用することのほうが非日常だった。

きっと、マスクをしている人のなかには、マスクを着用しない私を非常識だと思う人もいるんだろうな〜と憂鬱になる。あらゆる界隈に過激派っているから。。マスクしろ過激派しかり、マスク外せ過激派しかり。そして、非常識かもしれない私は、ほとんどの人がマスクをつけ続けるこの状況を「非日常だな……」と思いながら眺めている。どちらから見ても「常に非ず」、もう交わることはないのだろうか。

ただ、子どものマスク着用については「個人の判断」に任せてはいけないと思っている。子どもに決めさせる、一見、子どもの意思を尊重しているようにも感じられるそれは、大人による責任と教育の放棄ではないのか。「判断」とは、あらゆる知見に触れて、初めてできるようになるものであって、その責任を子どもに負わせるべきではない。判断力が未成熟な人はもちろん、容易に判断できない事柄に関しては、大人でも多数派に流されやすい。それは「選択」なのかもしれないけれど「判断」とは言い難いよね。流されるままに「選択」して多数派に入ることと、「判断」して多数派に入ることは、結果が同じでも意味合いが大きく異なる。マスクを着けるにせよ、外すにせよ、大人が責任を持って子どもと対話すべきだ。

……まあ、これも「独り身が綺麗事を言ってる」なんて思われちゃうのかな。へこむ〜。