部屋と沈黙

本と生活の記録

市川春子『宝石の国』最終13巻を読んでの感想

この世界の痛みを取り除くために、すべての人類は死ななければならない。

この、未熟とも思える極端な思想を成就させたのが『宝石の国』だったのではないだろうか。私は、フォスの言う「善と悪、知と愚、美と醜が混在する難しい生物」としての人間が好きだから、なんというか、残念だった。人類である「私たち」としての回答はなされなかった。『宝石の国』は「宝石たち」の物語だから、と言われれば、確かにそのとおりなんだけど。

それに、この回答はフォス自身の答えだったのだろうか。この思想をフォスに植え付けたのは、他ならぬアユム博士ではなかったか。

私は、フォスだけがアユム博士を超えられると思っていた。しかし、フォスはアユム博士が示したとおり、つまり、あるひとりの人間が命じたとおり「橋を燃やし」、すべての人類を滅ぼした。

ともすれば、この世界のすべての生命に悪影響を及ぼしかねない我々はどうすべきか。

この問いに「みんな死んじゃえ〜!」では、あまりにも幼い。アユム博士の思想は幼い。博士の地位にありながら、思想面では未熟な人だったのだろう。彼女は、何も答えてはいない。

瑪瑙から始まり水銀に至るまで、自分とは異なるものを身のうちに湛え、それでもなお自分自身を保っていられたフォスならば、アユム博士を、人間を、超えられるはずだった。あらゆる宝石のなかで、フォスだけが疑い、問い、探し、壊れながら背負い、1万年の時を超え辿り着いた。

自分とは異なるものを受け入れ、自分とは異なる者のために祈ったのは、フォスフォフィライトだけだった。

月人及び月人になった宝石たちは、フォスがさも愚かであるかのように憐憫していたけれど、己のうちの愚かさにすら気づかない、あるいは、見て見ぬふりをする彼らのほうが、はるかに愚かだと思う。疑わない、問わない、探さない、自らの望みのために犠牲になった者を救うのは、自らの望みが叶ったときだけ。月人は、大衆の弱さやグロテスクな側面を凝縮したような存在だと思う。

12巻に収録された地上閉鎖後の会議で、彼らは、なにを偉そうに話し合っていたのだろう。私に言わせれば、己の愚かさに気づかないお前たちこそ愚かだよ。フォスを利用し「かわいそう」な境遇に追いやりながら素直さを求め、極めつけは、フォスを許してやってくれ?お前たちが始めた物語だろうに。月人の計画がフォスを損なわせ、ついに反撃したフォスを「許してやってくれないか」だと?何様のつもりだろう。

愛されたいと願い、特別になりたいと思うことの、何が悪いのだろう。みんなの役に立ちたいと思うことの、何が悪いのか。承認欲求のない人間など、ほとんどいない。フォスの一部が消える瞬間の「やり遂げた」「何も出来なかった」「この僕が」「先生」「ほめてくれるかな」という囁きに胸が締めつけられる。フォスが慕っていた先生の正体は、ほとんど伽藍堂なのに。自分が持っていたババをフォスに押し付け、自らの痛みから逃れたうえで「(フォスを)許してやってくれないか」などとのたまう、クソみたいな奴なのに。何もできなかった、しなかったのは、フォスじゃない、彼らだよ。フォスは超えようとしたよ。ほんと、児童虐待を見ているようで胸が苦しい。どんなに傷つけられても、子どもにとってはその親が世界のすべてだから、愛と承認を求めてしまう。

スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』に、人間形態主義という指摘がある。人間の形を基本として世界を把握・解釈しようとする擬人的な世界観、その視野の狭さ、傲慢さへの指摘でもある。もしかすると、宝石として生まれたフォスに対して、人間を超えてほしい、痛みの円環から連れ出してほしいと求めるのもまた、傲慢なのかもしれない。

とはいえ、そもそも『宝石の国』が人間形態主義ではある。今のフォスが幸せならもういいのかな……、という諦めに似た気持ちもあるけれど、単一の生命体だけ、同じ思想を持つ者だけで構成された世界を、私はどうしても、美しいユートピアだとは言えない。たとえ人間が「善と悪、知と愚、美と醜が混在する難しい生物」だとしても、その難しさのために放棄したくない。自分とは異なるものを受け入れ、自分とは異なる者のために祈ることができるフォスだからこそ、1万年をかけてインストールされたプログラムを超えられると思ったのだ。私が思う賢さとは、何かを超えようと足掻く人たちのことだから。人間が人間である限り、人間から抜け出すことはできない。だからこそ私は「私たち」としての回答を求め、探す。

宝石の国』は、第45回日本SF大賞の最終候補作にノミネートされた。私がフォスに求めていたものは何か、月人らに何の期待もしていなかったのはなぜか、私が持ちうるすべてを尽くして書いたつもりだ。たとえ名だたる「SF読み」が良しとしても、私は違う。今回は私が「働かない蟻」だったのだ。集団とは別の行動をとるはぐれ者。そういう者だって、いていい。はぐれ者にも言葉がある。

私は、ものごころつく前から本が好きで、あらゆる他人の思想を一丁噛みしてきた。おもしろそうなものから順に貪り食い、腹のなかで混じり合ったそれらはもはや区別がつかない。内面化された、集合体としての私だ。私のなかには大量の他者が混じり合っている。私は、あらゆる他人の思想を踏み台にして、言葉にする。

仏教を知らなくても『宝石の国』について語っていいし、むしろ仏教をもとに『宝石の国』を語る人ほど「仏教モチーフのスタンプラリー」に終始しているような気がする。突き詰めれば仏教もまた、他人の思想でしょ。『宝石の国』に仏教が引用されているのは分かった、それで、あなたはどう思うの?他人の思想を借りて語るなんて、もったいない。あなたの言葉が聞きたい。あなたにとって、あなたの言葉がいちばんであるべき。拙くても構わない。